昨日、お通夜が二つあって、夫とワタクシ、それぞれお通夜に行きました。
ワタクシたちが住んでいる地域はカトリックの集落なので、五島に移住してからの25年間はカトリック式のお葬式とかお通夜に行く機会の方が多かったのですが、昨日ワタクシが行ったのは浄土真宗式のお通夜でした。
ワタクシの実家のあった地域は浄土真宗なので、お経がなんだかなつかしい、と思いました。
いつの間にか自分が小さかった頃、というのが大昔になっていますが、その頃は夕方になるとお仏壇に燈明を上げてお経を唱えるオババの姿、などが集落の家々では割と日常の風景であったと思います。
そしてその家にいる幼児などは、そこに一緒に座ってお経のマネゴトなどをして一節を覚えていたりもしたものです。
ワタクシの幼なじみにもそのようにお経を諳んじることができる男子などがいて、祖父母と住んでいなかったワタクシなどは、なんだかそれが羨ましくて、仏壇の引き出しにある教本を取り出して覚えようとしたりしました。
しかしワタクシが、もっとちゃんとお経の一節を覚えたのは「はだしのゲン」の漫画からでした。
ゲンが生まれたばかりの妹の命を救うためにお寺でお経を習い、結局その小さな妹は栄養失調のため短い命を終えるのですが、ゲンはその妹にもお経を上げ、あるいは原爆に焼かれて、全身ケロイドでただただ死を待つヒトのためにもお経を上げ、というような場面があったと思うのですが、そこにお経が書いてあったので、それを何度も何度も読んで覚えていたのです。
今の時代、もう一度「はだしのゲン」を、みんなが読んだ方がいいと思います。
それはさておき、お通夜やお葬式に出席して故人のご冥福をお祈りさせてもらうと、本当にいろいろなことを考えたり、思い出したりして、延々と考え続けてしまうのですが、それらのことを徒然なるままに綴ってみたい気分、とフト思ったので長くなりますが記したいと思います。
先月、父親の命日が2月18日、ということを書きましたが、それは、もう19年も前のことになりました。その時は、今年「はたちの集い」のサトが1歳だったので、お葬式はワタクシがまだその赤ちゃんだったサトを連れ、もう自分でしっかり歩けるハナやサトは夫が連れて、というように別行動でした。
わが家は養鶏をやっているから、その仕事を誰かにお願いしたりしないといけないので、夫は出来るだけ短期間で五島に戻れるように、ということで、そうしたのです。
なので帰りも別々で、ワタクシは赤ちゃん連れでもあるし、お葬式の後、2,3日は実家にいて父親が確かにそこに存在していた、というような余韻に浸っていたい気がして、実際、そうしようと思っていました。
ところがそれは出来ませんでした。
なぜならワタクシとサトは次の日の朝に突然、実家を追い出されてしまったからです。
追い出されてしまった、というのは、けっこう過激な表現かもしれませんが、あの状況を正確に書くとしたら、やっぱりその表現が一番しっくりくるかな、と思うので書きますけれど、でも別にそうされたことを責めたり、ひどい、と思ったり、というような気持ちは全くないので、その辺はどうかどなたさまも誤解されませんように。
再婚して長いこと、かなりやっかいな父親の面倒をみてくれていた叔母には叔母の事情や考えがあったのだと思います。
しかしもともとボンヤリしているワタクシは、何が起こったのかワカラナイ、というか、青天の霹靂、というか、とにかくビックリしました。
その時、ワタクシたちを扉から押し出しながら、叔母がワタクシに何枚かの一万円札を握らせました。
後で数えてみたら10枚ありました。
とりあえず駅に向かいながら、今からどうしよう、と途方に暮れました。
途方に暮れた、という表現も、あの時ほどピッタリ当てはまる、ということもない、というほどワタクシたちは「途方に暮れて」いたのですが、このまま五島に帰る気力はない、と思ったので、とりあえず津久見から大分まで電車で行って大分のホテルに泊まりました。
ホテルのベッドの上で、何人かに電話をかけたことを覚えているのですが、小さなアドレス帳をめくりながら、その時は携帯電話はまだ持ってなかったので、ホテルの固定電話で何人かにかけてひたすら喋っていたような。
そういう時でも、赤子のサトは静かでおとなしかったな、と思います。
しばらく喋って少し元気を回復したワタクシは、父の親友であった「湯布院のおいちゃん」のところに行こうと思いました。
それで大分から湯布院に向かい、おいちゃんの家にたどり着いたら、おいちゃんもおばちゃんも温かく迎え入れてくれました。
多分ワタクシはボロボロであったと思いますが、ごくごく自然に普通に。
ワタクシ常々、自分は運がいい、と思っていて、そう言ってもおりますが、ワタクシの幸運は、このような温かいヒトビトと人生のいつの時代も出会えていることです。
この時の出来事を、フト何かの拍子に友人に話したら、それを聞いていた友人がワタクシよりも感情的になって怒り始めた、ということがありました。
なのでワタクシの方がなだめたりしていたのですが、また別の時に、全く同じように怒り出した友人がもう一人いて、その二人というのが、すごく実家に恵まれたヒトなので、実家に恵まれたヒトの愛情深さに感動したり、他人のためにも、こんなに怒ることが出来る、というところが素敵だな、と思ったり、何かを豊かに持っているヒトは、こんなふうに他のヒトにも与えることが出来るんだな、ということがよく分かって、世の中というか、人間というか、そういうのっていろいろ良く出来てる!と思ったことでした。
そんなふうに、いろいろな気づきがあったその出来事でしたが、そんな中でもワタクシが強烈に一番よく分かったことは「今まで自分は父親に守られていたんだな」ということです。
思えば少し(かなり?)風変りなコドモであり、思春期以降も一般的な女子の道を外れて歩いていたけれど、しかしワタクシには母親がいなかったので「女はこうするものである」という価値観を誰かに押し付けられることなく、自由にのびのびと変わったことや突飛なことの数々を好きなようにやっていたのだけれど、それが出来たのは、父親が誰にも文句を言わせないように、あるいはその文句がワタクシには振りかからないように守ってくれていたからなのだ、と。
父親がいなくなってから、ワタクシは初めてそれに気がついたのでした。
葬式の後、叔母が言っていたことは、父親に介護が必要な状態だったらここですることがあるけれど、もう父親はいないからすることは何もない、ということ、そしてこれはワタクシの想像ですが、昔気質の叔母が思っていたことは、早く自分の家庭に戻って女の役割を果たさなくてはならない、夫に不自由な思いをさせてなならない、ということだったのではないか、と。
嫁いだ女が2,3日、ボンヤリしようなどと何を甘えたことを言っているのだ、ということだったのかな、と。
女子の道を外れてノホホンと過ごしていたワタクシは、そんな叔母の価値観とはことごとく合わなかった、というだけで、別にどっちが悪い、ということもないのですが、こういう価値観から抜けられなくて苦しんでいるヒトは今でも多いと思うし、また、それで結婚しないヒトや離婚するヒトも多いとワタクシは思います。
それはともかく、その時のように、なくなってから初めて気づくこと、というのはいろいろあります。
そしてそれは、なくならないとハッキリ分からない、というところがあるから困るのです。
それがある間は、あるのが当たり前と思ってしまうから、気がつかないのですね。
大切なヒトの存在も、そうでしょうし、健康とか、環境とか、他にもいろいろ。
なくなってから初めて、その存在の大切さに気づくのです。
その存在は当たり前のものじゃなかった、それがあるおかげでどんなに自分は支えられていたのか、そしてなぜ、その存在があるうちにもっと大事にしなかったのか、とヒトはしばしば後悔します。
人間って愚かです。
今、ワタクシが一番危惧しているのは、日本のこの平和な状態です。
戦争していない状態、日本人がよその国に攻め込んで、ヒトを殺すことがなかった、この80年間の状態です。
それが守られていたのは、国民が相当に凄惨な経験をし尽して、また他国のヒトビトを大ぜい殺したり極悪非道なことをしし尽くした、先の戦争体験から、もう二度とあのようなことがないように、と作られた「日本国憲法」があったからだ、と思います。
それが危うくなっている、ということを、毎日のニュースを見聞きしていて感じるのです。
でも、黙ってただただ不安に思うのではなく、何か出来ることをしたいと思います。
黙っていてはダメなのです。
とりあえず、議会の一般質問で、憲法のこと取り上げるからガンバってみようと思います。
憲法記念日に生まれた父親は、もういませんが、ワタクシには支えてくれる存在がいくつもあるから大丈夫!
予告通り、長くなりました。
昨日の「土曜日開店 木ノ口かたし」の出来事よりも先に、フト浮かんだことを書きたくなるのがワタクシの悪いクセ。
それにお付き合いくださって、どうもありがとうございました。
ではでは皆さま、ごきんげんよう。
皆さまにとっての今日も、良い日でありますように。