この土日に、福江文化会館のホールで映画「沈黙」の上映があったので、今日(あ、もう昨日だ)の上映の方に行ってみました。
テーマが重いものであるし、処刑や拷問の残虐な場面もあるし、観終わって「あー面白かったなぁ」などと単純に言える映画ではもちろんなく、なんとも複雑な気持ちになることこの上ないのです。
しかしワタクシがどうにも気になって仕方がなかったことと言えば、あの時代に、ひっそりと暮らしている切支丹の村のお百姓や、地方のお奉行さまが英会話(本来はその時代の外国語は英語ではないけど、それは置いておくとして)が上手過ぎるのではないか、ということです。
ラジオの語学講座もなければスピードラーニングもない時代に、なんであんなに外国語が聞き取れて会話ができるのか、単語集もないのにどうじてあんなに語彙が豊富なのか、ということに引っ掛かってしまって内容に集中できない、ということがありまして、内容についてよくよく考えるためには、ワタクシは本で読んだ方がいいなぁ、と思ったことでした。
細かいことが気になる性分はいけませんね。まぁしかし気になるものは気になるんだから仕方がない。
風景なんかも何かが違う、と思いました。なんだか大陸的な感じがして、む、ここは一体どこの国?という感じがしてしまったし、どうも集中できない要素が多かったです。
しかしながら、昔の暮らしのドロドロ具合、雨が降ればぬかるんで泥にまみれてしまう様子などはリアルだったと思います。ワタクシは築100年近い古い家(快適なリフォームはなされていない)に住んでいて、しかもお百姓をしているから分かります、その感じ。
そしてこれは以前、熊本城に行った時にも思ったことだけれども、現代というのはごくごくフツーの庶民が、お殿様以上の生活が出来る世の中になったんだなぁ、ということ。
ドロドロにまみれたお百姓と違って、お殿様は綺麗な着物を着て、清潔な屋敷に住んでいますが、それにしたって現代ほど快適な暮らしは出来ていなかっただろうから、本当に今は恵まれた時代です。
しかしワタクシたちは、こんなに何年も英語を勉強しても、切支丹の村の「じいさま」のように話すこともできない、ということは考えものだ、と思ったことでした。
語学は必要に迫られなければ上達しないのだなぁ、と。
なんだか的外れな感想でスミマセン。