道徳の授業は眠い

今日は職場体験に来た中学生とブルーベリーの収穫をして、予告通りケーキも一緒に作りました。

そして、お昼ごはんも一緒に作って食べました。
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「うとん山農場」の職場体験ですので、メインは真ん中に堂々とある、この卵焼き。初めて作ったそうですよ。後は、先日頂いた魚を南蛮漬けにしたり、イカの天ぷらとか、やっぱり頂いたキュウリのサラダ、それに味噌汁です。

上手に美味しく出来ました

そして、午後からは小学校で授業参観があるので、アタフタと小学校へ。

授業参観は道徳の授業でした。

なんでも、今年から道徳が教科になったんだとか。

なんで?

ワタクシは以前にも書いたことがありますが、道徳の授業がタイヘンに苦手です。道徳の授業を聞いていると、もう何か居たたまれないような気になってきて、ついには眠くなってきます。

何故ならばワタクシは実に倫理観の欠けた人間だからです。今のところ、運が良かったことと小心者なのが幸いして、お縄にかかるようなことにはなっていないのですが、少なくとも偽善者なのは間違いありません。

しかし偽善からでも始めないことにはどうにもしようがない、と思いました。何故なら自分の中の暴れ馬のような感情を制御できない、と感じることが度々あったからです。

なんだかどうも胡散臭いような偽善的なことを、せっせと書いたり言ったりやったりしているのは、そのためです。

グチャグチャドロドロとした黒く渦巻く感情というのは自分の中に必ずあるけれど、理想だけは捨てたくない、と思うし、たとえ偽善であっても何もしないよりはマシかもしれない、とも思うからです。

しかし、この暴れ馬は、悪い面ばかりでもない、と年を重ねると思うこともあります。

それを言いかえると「情熱」と呼ぶことも出来なくはないのです。これがあるから生きる力も湧いてくる、ということもあります。

あまりにも、「より良い人間であらねば」などと思っていると、それにがんじがらめになって、随分と薄っぺらくて面白みのない人間になるだけのような気もしているのです。

人間というのは、そんなに単純なものではないのだな、と思う今日この頃でございます。

自分の中にも、そうそうお行儀のよくない、訳の分からない熱い感情があって、それは何かのきっかけで出てくるのかもしれない、と思います。それは見た目や印象とは何も関係がない、ということは、世間が驚くような事件を起こした人物が「おとなしそうなヒトだったのに」とか「あんなことをするようなヒトには見えなかった」などなどと、しばしば言われたりしていることからも分かるではないですか。

良妻賢母というようなものとは、まるで無縁のワタクシが、この世間で生きていくために必死で(本当に!)取り繕ってみても、結局のところ、本質は何も変わらないノダな、というのが、諦めでもあり、希望でもある、というのが、ここ最近、度々名前を出した本「ナーダという名の少女」を読んだ感想でありました。

これはもう本当に血が騒ぐ本でした。

著者の角野栄子さんが、あとがきに「ブラジルのムジカ(音楽)を感じていただけるだろうか」と書いておられましたが、感じました!!とワタクシは叫びたいほどでした。ついさっき、読み終えたばかりなので、コーフン冷めやらぬ感じ。

本を読んで、音楽を感じたのは初めてです。

素敵な体験でした。

道徳の授業を、様々に工夫してやって下さっている先生方には敬意を払います。本当に御苦労さまです、とねぎらいたい。

しかしやっぱりワタクシは、道徳を教科にして点数などをつけて評価するのはおかしなこと、と考えます。道徳というのは、人間の「生きる姿勢」、でしか示せないもの、と思うからです。













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by sanahefuji | 2018-06-27 17:54 | 雑記 | Comments(0)