今日まで私、竹を割っていたい気分です

今日は木曜日、竹の稽古の日でした。

今まで何度かの竹の稽古の時間に作った、竹カゴを編むための「竹ひご」が、だいぶ出来ただろうから、今日はカゴの骨組みを作りますか?という師匠の問いに対してのワタクシが答えが、表題の「今日まで私、竹を割っていたい気分です。」ということなのですが、それは何故かと言いますと、骨組みを作ってそれを組み合わせる作業というのは、けっこうな集中力を要するもので、今日の自分にはそれが出来ない、と思ったからです。

「竹ひご」にするための竹を割る作業というのは、ただひたすら長い竹を半分、半分、また半分、というように割っていくだけの単純作業でありますから、それならば出来るだろうと思ったワタクシ、今日まで私、竹ひごを割るヒトになる、と何かの歌の歌詞のような言葉が浮かんできたのでございます。


先日、合唱指導の先生に、音楽の専門教育も受けてないピアノも弾けない楽譜も読めない人間が合唱の指導者になるにはどうしたらいいか、というような質問をしたところ「言葉を指導したらどうですか」と言われた、と書きました。

そのことについて、あまりにも「ハッ」とし過ぎて、「こうしちゃいられない!」と思ったワタクシ、演奏会が終わったその足で図書館に向かい、以前借りたことがあるこの本を、再び借りてきました。
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そして図書館に行った後、そう言えば子供たちにアイスを買って来てと言われていたのだった、と思い出し、今度はアイスを買いに行き、そこでワタクシは、それぞれのアイスを何にするか、ということで、あれこれ迷っていたのです。自分用に買うかどうかも悩んでいたのだけれど、演奏会も終わったし、やはりここはブラックモンブランの1つでも食べたってよかろう、などと思いながらも、心は何か思いつめたようになっていて。

「言葉」についての感覚を鋭くするには、どうしたらいいのか?

そんなに簡単に指導ができるなんて思ってはいないけど、「言葉」について人並み以上の力をつけるには、どうしたらいいのか、と考えていた時に、結局のところは実生活で「言葉」と深くかかわるしかないのではないか、という思いが湧いてきて、それには恥や外聞や世間体などは捨てて、「とにかく自分は伝えたいことを伝える」という姿勢を貫くべきではないだろうか、と思えて仕方がなくなりました。

何のために自分は文章を書いたり、歌を歌ったりしているのだろう、と考えた時、やっぱりそれは人に何かを伝えたいからだ、と思うのです。

ワタクシが、もう殆ど潰れかかって、もうダメかもしれない、と思い詰めていた時に、自分の思っていることを友に洗いざらい話すことによって生き返った、ということが、ありました。

わざわざ東京まで行って、洋子さんに「言いたい事を言わなきゃダメよ」という言葉も頂いてきました。

そうだ、話さないと、言わないと、ダメなんだ、と非常に納得したのです。

でも、自分が思ったことを言うことで、迷惑を被るヒトや傷つくヒトもいるだろう、自分も無傷ではいられないだろう、そういう恐れも抱いてしまうもので、黙っていた方が得策だと、黙っているうちに、自分は潰れる寸前、ということになったのではなかったか。

「言葉を指導したらどうですか」という合唱指導の先生の提案は、本当にいろんな意味で、そうだ、それをやらないといけなかったんだ、とワタクシに思い出させて下さいました。

今ワタクシは、なんだか少し変わった暮らし(でも本当はこれが普通と思いたい)をしていて、今回みたいに文章が賞なんかをもらったりしてしまうと、「なんかワカランけど、スゴイ」などというふうに美しい誤解を受けることもありますが、ワタクシ自身は本当~に本当~に何もスゴくない。

ものすごく矛盾に満ちた心や行動をなかなか制御できないが故に、少しでも「まとも」になれないものか、と思って「まっとうな」ことをやろうと試み、それを記している、ということに過ぎないのです。

決して嘘をついているわけではなく、こうありたい、と思うのは本当なのだけれども、それを目指そうとしているのに、そう出来ない自分、それから外れてしまう自分、というものに常に苦しめられてもいるわけです。何しろフーテン気質だからなぁ。

バカは死ぬまで治らない、というけれど、それって本当なんだな、と思うことも多し。

そんなバカなワタクシでも何かできることは、あるんじゃないか、と思ってはいるけれど、何もかもが下手過ぎて、ナニゴトも中途半端で入口付近をウロウロしている感じ。

でももしかしたら「言葉」だったら、もっと深く深く入っていくことができるんじゃないか、と、おぼろげながら思っていて。

山根基世さんの、この本の「はじめに」の部分に、

「言葉は人間にとって、生きる力です。自分の気持ちを言葉で表現する力、相手の言葉を聞いてその心を理解する力、それによって周囲の人と良いコミュニケーションを築く力を持つことが、人生を切り拓く力になるのだと思います。」

という箇所があります。

確かに自分も、自分の気持ちを言葉で表すことができて、またそれを聞いてくれるヒトがいたおかげで死ななくてすんだ、ということが、ありますから。

言葉、それは人を傷つけることもあるけれど、人はそれによって生き伸びることもまた、できるのだ、と思います。

だがしかし、まだまだワタクシは、言葉の扱いは、赤子レベル、と感じる今日この頃でございます。

師匠のお宅の入口に咲いていた菊の花。
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花は言葉はなくとも、語りかけてくれますね。それは心の言葉かな。











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by sanahefuji | 2018-11-15 18:17 | 雑記 | Comments(0)