これがこの間、運び込んだガスオーブン付きのガスコンロです。今朝、言っていたように、シュトレンを焼いてみたのですが、火加減が難しく、いきなり本番、というのはちょっと無理がありまして、6個焼いたうちの半分の3個は底をまっ黒に焦がしてしまいました。あとの3個も商品になるかどうか、微妙。あーあ。
カマドの位置を変えたり、いろいろ配置変えもして、随分と使いやすい台所にはなったのですが、このガスオーブンをうまいこと使いこなせるかどうか、は、これからの努力にかかっております。
シュトレンを失敗してしまったのが、「ちっきしょー」とコータロー並みにかなり悔しいワタクシ、なんだか元気が出ない、とか「プチ引きこもり」などと言ってられないぞ、と、少し活気が出てきましたよ。あ、でも多分まだ引きこもりには違いないのですけど。
最近は土曜日以外でも、もうずっとカマドでごはん炊いてます。カマドでごはん炊くのって、静かにじわじわ楽しいんです。もちろん美味しいし、いいことばかり。
元気が出ない時ほど、火を見ると気持ちが落ち着くので、皆さまもお試し下さい。かといって、うっかり放火などしないように、家で何かを燃やす生活がある、というのは良いですよ。
こんなふうな備え付けのカマドがなくても大丈夫です。持ち運べるタイプのカマドが数千円で買えます。澤本金物店にはステンレス製のものがありまして、ワタクシとしましては、それが一番おススメです。いや別に澤本金物店の回し者ではないのですがね、いろいろ、回って見て、ステンレス製のもの、というのは澤本にしかなかったんでね。他の材質のものは、いずれ朽ちますから、どうせ買うならステンレスのものが良いのです。
そして羽釜も売ってますから、興味のある方はやってみて下さいませ。
今日は中学校で「ふれあい給食」とか人権集会とか授業参観とかがあったのですが、ワタクシは給食だけ食べて、後は欠席してしまいました。木曜日だけど竹の稽古も欠席。なんとか立て直さねばなりませぬ。しかし、既に師走。シュトレンで躓くのは非常に痛い。
でもまぁ、今年は焼けないかも、と思っていたのだから、ヨシとしましょう。
今日、中学校に行ったら、職員室の前の壁に、ご丁寧にもワタクシが表彰式に出席した時の新聞記事が貼ってあり、ワタクシはそこで初めて見ました。また、なんだかエラそうなこと喋っちゃって、それが記事にされてしまった(長崎県版のみらしい)、と冷や汗もので、ややゲンナリしながらそれを読みました。
でもまぁ「かたし」について、確かにあの当時は、まだ「かたし」のような古い建物を改築して再利用する、というようなことも流行ってなかったし、そこにヒトビトが集まっていろいろできる「かたし」のような場所というのもなかった、というのは本当のことだし、それは、やって見せてしまえば皆、納得して、あーなるほどね、って思っただろうけど、改築を始める時には散々いろいろ言われたし、何も理解されてなかったのですから、たいしたことは出来てないにしても、何も見本のようなものもないところから作り上げていった、という自負があるのは確かです。
でもなぁ、あんなふうに新聞記事に「自負があります」なんて、きっぱり書かれると、なんだかエラそうに聞こえるなぁ、とか思って落ち着かないのです。なんかまた幻想を抱かれたり、誤解を受けそうだなぁ、と思ったり。
まぁここに訪れて下さっている方々は、ワタクシのウダウダぶりも無能なところも、よくご存じでしょうから、安心していますが。
人間って本当に訳が分からないものです。何がどうなってこうなる、とか、まるで理屈が通じないことも、いっぱいあるし。
自分ですらよく分からない。
そんなふうに、近ごろやけに思うせいか、訳のわからない話、それを文学作品と言えば格好いいですが、ホントにただ単に「よーワカラン話」なんですけど、急に読みたくなりました。短い話だったんです。でもドイツ語。
もちろんドイツ語はもはや全く分からないので、日本語訳を読みました。
以前、勉強していた時のラジオ講座「読んで味わうドイツ語」の中にあったフランツ・カフカの「皇帝のメッセージ」という話。
ホントに分からない、意味不明の話。
でも、この話を解説して下さっていた諏訪功先生が、解説の合間にして下さった雑談(ラジオ講座なのに、この時はまるで本当の講義を聞いているようだった)をワタクシは強烈に覚えていて、そのおかげで、この話のことを覚えているのです。もちろん内容は意味不明だから覚えてないけど、そのワケの分からない感がクセになるというか、なんというか。
でも今、そのテキストを引っ張り出して日本語訳を読んでみて、全然ワケが分からないのに、なんか分かる、と思ってしまった自分が不思議。
特に最後の一文、
Du aber sitzt an Deinem Fenster und ertraeumst sie Dir,wenn der Abend kommt.
うん、分かる、そういう感覚。
ワケが分からないものは、どのように解釈しても良いから、勝手に納得する、とか、あるいは、いろいろ分からないのは、なにも自分だけじゃないんだな、と分かって安心する、とか、文学の役割って、そういうところにもあるのかな、と思ったりしました。
それにしても諏訪功先生の声が素敵だったなぁ、ワタクシはその落ち着いたお話しぶりが大好きでした。
あーまた勉強したい。ちょっとまだ無理だけど。