毎年ワタクシは、年賀状をもらう度にいつも思うことがあるのです。
それは、お店とか商売用の年賀状ではない、個人の年賀状の話なんですけどね、宛名も印刷で、表というの裏というの?まぁとにかく葉書の全面も印刷の年賀状がありますわね、というか、最近は印刷じゃないものの方が珍しいくらいですが。
それで、それに何も書いてない年賀状、というのが一定数あるわけです。たいていは「元気ですか?」などという一言くらいは書いてあるものですが、全く何も書いてないのがあるんですけど、これにいつもワタクシは迷うわけです。
アレ?なんで何も書いてないんだろう?書き忘れたのかな?それとも、例えば名簿か何かが自動で宛名を印刷してしまって、本来とくに出そう、と思ってないヒト(ワタクシのことだけど)にも出しちゃった、とか、そういうことかな、とか。
その無言の年賀状、というのがワタクシにはタイヘン謎なわけです。
何も書くことがないヒトに年賀状を出す必要もないような気がするのだけど、でも、ずっと続いているから、みたいな感じなのかな?とか、何百人にも出すので、何も書けないのかもしれないけど、それだったらなおさら削ってもらっても支障がないような気がするし。何も書いてないと分かっているのに、何度もひっくり返して見てしまったりする。
それでワタクシなどは、年賀状を出すのが毎年遅くなってしまうので、手紙をもらったら返事を出す、という、もと手紙女の条件反射的に、頂いた年賀状にはこちらからも出すわけなのですが、途中で足りなくなったりして、元旦に届いた、そのような無言の年賀状に返事を出したばかりに、後で届いた手書きのコメントがある年賀状に返事を出せなかったりする、という理不尽が起こるわけです。
いや、それは言い訳で、年賀状が足りなくなったら、ただの葉書ででも出せばいいだけなのですけどね。でもせっかくなら年賀状を出したいじゃありませんか。
年々、子供たちが出す年賀状の枚数が増えて、いつの間にかワタクシの年賀状がゴッゾリ減っている、という事態になって、数も少ないから、この際、無言のものに出すのをヤメてみようかしら、と、もと手紙女のワタクシにしてはかーなりの勇気をもって出さなかったら、また次の年にも来ていて、あれ、やっぱり自動運転で届いているの?ということになる。謎です。
しかし、あれこれ考えた結果、一つワタクシが分かったのは、例えば年老いた親戚のオジサンなどからの無言の年賀状、というのは、これはメッセージがあるんだな、ということです。このようなヒトビトは、既に字を書くのも一苦労、という場合もある、ましてや気の利いた一言など書けない、ということもある、でも身内であるワタクシや家族が元気にしているか知りたい、そして自分もまだ元気だ、ということを伝えたいのだな、というように。
そして、もと手紙女であるワタクシは、いかに書くことがあまりないような、もうずっと会ってないようなヒトに対しても、すごく考えて何かしらの言葉を書くのです、それがもと手紙女の矜持である、とでもいうように。だから、そのような年賀状を貰うとひょっとしたら嬉しいのではないか、とか思ったりするわけです。だから、無言であっても毎年年賀状を下さるのかしら、などと思ったり。自惚れかしら。
しかし、字を書くのが一苦労でもない年寄りでもないヒトが何も書いていない、というのは、やっぱり謎です。
そのような年賀状に対してもワタクシは、宛名も手書きで、コメントも短くてもとってもいろいろ考えて書く、というのは、なにかこう、「句読点のみ」の素気ないメールあるいはラインに対して、絵文字いっぱいのコメントを返す、というようなバランスの悪い関係のような気がしないでもない。
あ、でもワタクシは、昨年の夏にケイタイを持ったばかりであるからして、若い頃にそのような関係でやりとりをした、などということは現実にはないのですが、そういうこともあるのかもしれない、という想像ではありますが。
というわけで(どういうわけだ)、義務感のようなもので、あるいは自動運転的に無言の年賀状を毎年出す、というのは、そろそろ止めても良いのではないか、と、ワタクシなどは思うんですけど、どうでしょう?
反対に、いつもは忙しくて手紙なんか出せないけれど、年に一度ということで、年賀状には、びっしりと書いて下さる方もいて、そういうのは本当に本当に嬉しいですね。
何度も何度も読み返して、なんだか泣けてくるほどです。
そのヒトの文字、言葉が伝わってくる手紙、大好き。
そういう年賀状のやりとりは、ずっとずっと大切にしたいな、と思います。
さてさて、年賀状の続きを書きますか。
蕎麦でも食べてから。これ、昨日のヨッパライのヒトビトにも好評で、あるヒトは4杯も召し上がった程です。
ウマいよ~。
正月はいいなぁ。