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新美南吉「屁」の話

おはようございます。

スミマセン、朝っぱらから「屁」の話だなんて。

しかしですね、ワタクシが先々週に図書館で借りた新美南吉の作品集「牛をつないだ椿の木」という本の一番最初の作品が、この「屁」という作品なのです。

「ごん狐」や「手袋を買いに」などは、ワタクシが子供のころから国語の教科書に載ってましたけど、わが家の子供たちの教科書にも「ごん狐」はあるようです。他には「飴だま」というのが載ってましたね。このように温かで美しい童話で有名な新美南吉さんの作品集の冒頭が「屁」とは。

ところで、南吉さんは(いきなり馴れ馴れしくてスミマセン)、この「ごん狐」を18歳の時に書いたのだそうですよ。「手袋を買いに」は東京外国語大学の学生だった時に。

なんと!

シューベルトが「魔王」を作曲したのが18歳、というのも驚いたものですが、シューベルトは31歳で、南吉さんは30歳で亡くなっている、ということも、何か通じるものがあります。

昔の芸術家というのは、才能があって優れた作品を作っても、その時は評価されなかったり理解されなかったりして、貧しくて早死にしたり、生きているうちに作品はついぞ日の目を見なかったりして(そうそう、前回の日記に書いた宮沢賢治もそうですね)、なんだか踏んだり蹴ったりタイヘンですが、でも、ヘンな話ですがワタクシは、「そういうの、いいなぁ」と思ったりします。

別に早死にがいい、というわけではなくて、きちんと自分の役割を果たして、さっとこの世を去る、というの、それが「いいなぁ」と思い、そういうのに憧れます。

と言ってもワタクシは、もうすぐ46歳、既に「さっと」この世を去るには遅いような感じになってきて、しかもやることと言えば、恥をさらすようなことばかりで、あー凡人は凡人でタイヘンだなぁ、と思う。

あ、でも「ダメでもともと」と思って、普通のヒトより2か月も遅れて蒔いた小麦、こんなに元気に育ってます。
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今年こそは恥さらしにならないよう、草だらけにしないぞ、と思っておりますが、どうなることやら。


「屁」の話でした。

石太郎という屁の名人がいて、この石太郎は、どんな種類の屁でも放てるそうな。大砲でも機関銃でも、あるいは「とうふ屋」、くまんばち、かにのあわ、こごと、汽車などなど。

個人的には「かにのあわ」とか、ちょっと想像するとイヤな感じがしますが、まぁ石太郎はどんな屁でもできる、ということです。

余談ですが、ワタクシは「屁の見える化」という点では、なかなかの才能がある、と自負しておりまして、これは、家の者の誰かが屁をした時に(自分ではない、ということは言っておきましょう)、それを図形化することが出来るのです。

大抵は、2本の直線で表します。素直な感じのものは起点から真っすぐに、末広がりに伸びて消える、というのが普通です。音によってその角度や長さが変わります。

場合によっては、真ん中が一度二度と膨らむもの、とか、あるいは小刻みな波線で移行するもの、一度ふくらみ収束するもの、などなど、いろいろあります。

しかし、この「見える化」というのは、わが家の女子たちには実に不評で、「今のはね・・」と言おうとした途端に「あーもう言わんでいい、ヤメテヤメテ!」と却下される。面白がるのはコータローだけです。

このような糞尿関係の話題に対しては、女子と男子の態度というのが、このようにはっきり分かれると思うのですが、ワタクシはどうもその点では小学男子と同じレベル、ということが言えます。

まぁワタクシは昔から学校の掃除で一番好きなのが便所掃除であったのだし、持っている運と言えばボットン便所運くらいのものだし、それにさらに「屁の見える化」の才能ぐらいしかない、とすれば、優れた作品を残して早死に(いやだから、今すぐ死んでも既に早くない)、という夢からはますます遠のきそうな感じで、これも誠に遺憾、残念なことです。ホントに。

あ、新美南吉の「屁」の話でした。

その石太郎は、その屁の才能ゆえに尊敬されるか、と言えば、そんなはずはなくて、むしろ級友たちから、あるいは下級生からでさえ軽蔑されておったのです。石太郎の家は貧しくて、不潔で、そういうこともあったからかもしれません。

それで、学級の中で屁をするのは常に石太郎、というふうになっていて、先生に叱られるのも石太郎、というふうになっていたのですね。

ところがある時、春吉君という子が、授業中にうっかり音のないのをやってしまう。気付かれねばよいが、という春吉君の願い空しく「あ、臭せ」という騒ぎが起こってしまう。さわぎが大きくなり、先生もどなり、春吉君は「息を飲んで面をふせた。」のです。みんなの視線が自分に注がれている、と思いながら。

ところがどこかから「石だ、石だ(石太郎のこと)」という誤った声が上がり、石太郎もそれを否定せず、へらへらしている。そして春吉君の代わりに先生に叱られたのでした。

そこでこの春吉君の心には大きな葛藤が生まれるのですね。「正義感と羞恥心とがめまぐるしい闘争をした。」とあります。

これは、粘土で茶わんなどの作品を作っている授業中に起こった出来事でした。石太郎が叱られて、騒ぎは収まった後も、春吉君の心の中では事は終わっていませんでした。

「気持ちに背負いきれぬほどの負たんができてしまった。春吉君にはこんな経験は、生まれて初めてといってよい。春吉君はいままで修身の教科書の教えているとおりの正しいすぐれた人間であると、自分のことを思っていた。
 いま自分が沈黙を守って、石太郎にぬれ衣をきせておくことはこれは正しいことではない。自分は堂々と言うべきである。いまからでもよい。さあいまから。そう口の中で言いながら、どうしても立ち上がる勇気が出ないのであった。
 春吉君はくやしさのあまり、泣きたいような気持ちになってきた。それをはぐらかすために、できあがっていただいじな茶わんをぐっとにぎりつぶしたのである。」

とあります。春吉君のこの葛藤は、彼の人生において最初の「自分で処理せねばならぬ煩悶」となりました。

そして、その後、教室で「屁」騒動が起こった時に、以前のように、それがいつも石太郎の屁だということは信じられなくなったのです。

「あいつかもしれない、こいつかもしれないと思う。」

そして、このお話は、

「そういうふうに、みんなの狡猾そうに見える顔をながめていると、なぜか春吉君はそれらの少年の顔が、その父親たちの狡猾な顔に見えてくる。おとなたちがせちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きてゆくのは、この少年たちがぬれ衣を物言わぬ石太郎に着せて知らん顔しているのと、なにか似通っている。自分もその一人だと反省して自己嫌悪の情がわく。だがそれは強くない。
 心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きてゆくためには、肯定されるのだと春吉には思えるのであった。」

と締めくくられております。

新美南吉さんって、なんという正直なヒト。

ワタクシは正直なヒト、というのが、やっぱり好きだな、と思いました。

南吉さんが早死にしたのは残念ですが、人生に年が関係ないように、その長短も何も関係ないのだな、とつくづく思う「屁」の話。

それはともかくワタクシは、今後、皆さまの脳裏には、誰かが放ったそのものの、図形あるいは直線、曲線が浮かぶかもしれない、と、ほくそ笑むのでございます。

ではでは皆さまごきげんよう。

今日もまた、良い一日でありますように。










by sanahefuji | 2019-02-27 07:41 | | Comments(0)

久しぶりに本を借りた

昨日、久しぶりに図書館に行きました。考えてみると年末以来、でした。1月はなんとなく、本を読む、ということから遠ざかってしまっていたのです。

しかし、昨日はどうしても行って新たな本を借りる必要がありました。というのもワタクシは明日、諫早まで行かねばならず、従って船の中や電車の中で読む本が必要だからです。

でも今日は月曜日で図書館は休みだから、何が何でも昨日行く必要があったので、まるで台風のようにドシャメシャに雨の降る中、図書館に行って本を借りてきた、というわけです。
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ラジオで紹介されていた「悪い本」、借りてきましたよ。左側の「だから見るなといったのに」という本も、なんだか怖そうな本です。いろいろな作家の短編集らしく、作家の名前が表紙に並んでいまして、その中に割と好きな作家さんがいたので借りました。なんかコワイものが読みたい気分です。夏でもないのに。

そして右の「北の無人駅から」というすごく分厚いノンフィクション、これもラジオで聞いて「読みたい!」と思ったので借りてきました。

この本は、今、「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」という映画が上映されていますが、この原作者である渡辺一史氏が書いたノンフィクションです。

先々週の土曜日の朝に、この渡辺さんがラジオで「こんな夜更けにバナナかよ」というノンフィクションを書いた時の事をお話しされていました。これは進行性筋ジストロフィーという難病を抱えた鹿野さんという方が、病院とか施設で暮らすのではなく、一人暮らしをしたい、ということで大勢のボランティアの力を借りて札幌市で暮らしていた時の記録です。

お話を聞いていて、まず映画を見よう、と思いまして、調べたら長崎では2月7日までやっているらしいので、5日に泊まりで長崎に出られることから、6日に見ることができるかな、と思いました。しかも水曜日はレディスデーで安いのです。このように、思ったように事が運ぶ、という運が復活してきているもの、と勝手に思い込むワタクシです。そう、思い込みは大事ですからね。

何故か原作よりもまず映画、と思ったので、その感覚に従い、本の方はその時にやはりお話されていた「北の無人駅から」というノンフィクションの方を先に読もう、と思いました。北海道の無人駅についてのノンフィクション、ということで、ぞわぞわと血が騒ぎますな。これを船で読むノダ。うしし。

なにげに「ジャパネスク・リスペクト!」という本を選んでおりますが、これ表紙に、氷室冴子「なんて素敵にジャパネスク」トリビュート集と書いてます。

あのね、何でも英単語にされるとワタクシはワカランのよね、と言いたくなりますが、さすがに「リスペクト」はもう、いろんなヒトが「リスペクトリスペクト」って言うから覚えたけど、なんで「尊敬してます」、じゃダメなの?とワタクシは思うんですけど、まぁいいや。

そしてトリビュート、これは何?と思って調べてみました。そしたら「感謝・賛辞・賞賛・尊敬の気持ちを表すもの」ということでした。なるほど。カタカナ語がワカラン、というのが多くて、もうお婆ちゃんみたいになっているワタクシですが、まぁいいや。

で、その「なんて素敵にジャパネスク」という本は、平安時代の宮廷貴族社会を舞台とした少女小説シリーズもので、兄の本棚にズラッと並んでいたのですがね、これにワタクシ、中学生の時に「どハマり」まして、もう読んでしまうのがもったいない、終わってしまうのがもったいない、、と思うほど夢中になっていたものです。ホント、面白かった。

だから「ジャパネスク」という文字に、即反応、即借りる、ということに。これも、うしし。おっと、ヨダレヨダレ。

「牛をつないだ椿の木」というのは、「手ぶくろを買いに」とか「ごんぎつね」で有名な新美南吉の作品集です。これはなんとなく。

この中で明日は「北の無人駅から」と「だから見るなといったのに」「ジャパネスク・リスペクト!」を持って船に乗ろう、と思います。うしし。

ワタクシの凪運も発揮されるようで、明日は今日より波が穏やかのようですし。うしし。

なので今日はガンバって用事を済ますのじゃ、と思っております。

それでは皆さまも、週の始まり月曜日、良い一日をお過ごし下さいませ。















by sanahefuji | 2019-02-04 08:05 | | Comments(0)

立ち読み覚え書き

昨日、農協にお金をおろしに行きました。隅っこのコーナーに「家の光協会」が発行している本が何冊か置いてあるんですけどね、通帳を窓口に出している、ほんの束の間、手にとって眺めたりします。

しかし、順番待ちをしているヒトがいるわけでなし、ホントにすぐに窓口のお姉さんに呼ばれてお金を受け取らねばならないので、殆ど読むヒマなどはないのです。

がしかし、昨日は、そのコーナーに何故か引き寄せられるようにして立ち、手に取ったその本を、どうしてももう少し読みたいと思ったので、お金を受け取った後に、お行儀の悪いことですが、立ち読みしてきました。

それは山形県の羽黒の山伏である星野文紘さんという方が書いた「答えは自分の感じた中にある 清々しく生きるための山伏のヒント」という本です。

まず「羽黒山伏」というのに反応したワタクシ、何故ならワタクシは五島に来る前は山形県の山形市内に住んでいて、「羽黒そば」なんかをよく食べていたからです。確か包装に山伏の絵があったんじゃないかな。「羽黒」という言葉、「山伏」という言葉、なんかなつかしいなぁ、と思って。

そして、この星野さんという方は、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の宿坊に生まれた方だそうですが、この出羽三山の中でも「月山」というのは、ワタクシの中でも特に印象に残る美しい山で、遠くに雪に覆われた柔らかな月山の姿を見た時には、何かこういいことがあるような、そんな気持ちになっていたものです。だから、その羽黒山伏の方が書いた本、ということで、非常に興味を引かれた、というのがあります。

さらに、この題名「答えは自分の感じた中にある」というのが、昨年ワタクシが「自分の感覚を取り戻さねば」ということを強く意識し始めたことと、すごく関連があるような気がしたからです。

立ち読みなどで、ざっと読んでは、誠に申し訳ないことなんですけど、しかし、どうしてもその場で出来る限り読まずにはいられなかったのであります。そんなら買えばいいようなものですが、いやぁ、だってね、昨日はようやくハナの大学の入学料を払ったんですよ。28万2000円+手数料864円、という大金を。なので、そうそう衝動買いも出来ない心境になるのももっともなことじゃございませんか?

というわけで、立ち読み、です。

読んでいて興味深かったことは、修行する山はもともと女人禁制なのですが(今は女性も受け入れているそうです)、それは差別で禁止しているわけではなくて、女性は修行をする必要がなかった、というのが星野さんの見解で、というのも、女性というのは修業をしなくても、「月のもの」の度に浄化することができる、だから修行をする必要がなかった、ということなのです。

つまり、女性というのは自然と繋がる感覚を自分の中に常に備えていて、昔のヒトはそれがいともたやすく体得できていた、ということなんですね。ところが男にはそれがない、だから、そういう感覚は厳しく激しい修業の末に得られるものだった、というわけです。

このことにワタクシは、ものすごく納得しました。

そして、女性というのは野性が強いものだから、とにかく自由にさせておくのが良い、いうようなことも書かれていたと思います。

そしてそして、ここが最も重要、その野性が強く、感覚のままに行動する女性を受け入れ、支えるのが男の度量というもの、というような箇所、ホント、そうだよそうだよ、とまたまた激しく納得。

ワタクシが思うに、今のこの日本の歪んだ社会というのは、度量の狭い男どもが権力を持って行使した成れの果て、ではないか、と感じることが多いからです。

あ、でも別に男が悪い、と言っているんじゃないですよ。その「度量の狭さ」がモンダイなのです。

このブログを読んで下さっているような男のヒト、というのは度量の広いお方ですから、安心して下さい。ワタクシが保証いたします(アンタ何様?と思われるかもしれませんが)。ホントホント。

ワタクシが思ったのは、女が自分の野生の感覚を取り戻し、男の度量が広く、大きくなれば、今起こっているいろいろなモンダイは少しはマシになるかもしれない、ということです。

まぁまぁしかし、そのようなことは考えても仕方がない。「考えすぎはネガティブ 感じることはポジティブ」とも書いてあったのですが、これもホント、そうだなぁって。

まずは自分の感覚を取り戻す、このように感じたことが、多分、正解。

いつも考えすぎて、そして自分を縛りつけて苦しんできたから、昨年、少々荒治療とも言えるようなことをしてしまったけれど、「感じたままに動く」という感覚を取り戻したことは、本当に本当にヨカッタ。それを導いてくれた、いろいろなことに感謝してもしても、しきれないほどです。本当にありがたいことでした。

そういうこともあってか、ワタクシは身近なヒトビトに対して、「なんかイヤ」とか「苦手」とか、感じなくなったのかもしれません。

そして、面白いことですけど、身の回りにあるモノ、例えば洋服なんかも、いつの間にか「好きなもの」ばかりになっていたり、ものすごくきれいに片付いてはいないけれど、家も適度に片付いていて(まぁ適度にちらかっている、とも言えるけど)、とても居心地が良いし、「木ノ口かたし」や畑など、仕事していて楽しい空間になっている。

感じたままに動くと、こういうふうに、なっていくのかな、というのが、少しずつ実感できているのでした。
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月と星をかたどったノンホールピアス、これも昨年すごく気に入ってつけていたのですが、「月」とか「星」の力を感じる気がして、これをつけた時には、いいことがあったなぁ、とか思い、女性がアクセサリーをつける意味が分かってきたワタクシ。例えば石とか光に力を借りたり、自然と繋がっていることを思い出したり、そのためでもあるのかな、と。

女のヒトなら誰でも持っている、この感覚が(それがきっと野生)、これからの時代を作っていくのかも、などと、ちょっと大げさですが、そんなふうに思いました。

立ち読みで、スミマセンのですが、

アナタに出会えて、ヨカッタ。
































by sanahefuji | 2019-01-30 07:39 | | Comments(0)

本日、長崎泊です

8月にあるはずだった女性農業委員の総会&研修会&懇親会などが、台風の接近により延期されて、今日になったので、本日ワタクシは長崎に行ってきます。

もう随分前から、今回の船の中&宿で読むものは決めていました。

それは、石牟礼道子姉さんの(この夏からワタクシにとって彼女は尊敬すべき姉さんと決めた)「西南役伝説」です。ハードカバーの重い本の中にある話なので、どうしようかと迷いましたが、なあに重いって言ったって赤子をお腹や背中に抱えて子供の荷物を持って移動するわけでなし、一人身で行くんだからよかろう、と持って行くことにしました。
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この中の左側の本の中に入っております「西南役伝説」とは、西南戦争の舞台となった薩摩や天草の地を訪ねて古老に話を聞いて書いたもの、ということのみ、ざっと知っております。とある作家さんの解説を読んで、これはすぐに読まねば!と思ったら、ワタクシが持っているこの本の中にあったのにまだ読んでなかった、ということが分かったので、この機会に船で読むべし!となったというわけ。

その他は図書館で借りました。真ん中のもけっこう重い(重量が)ので持って行くかどうか、ギリギリまで検討中。右のはちょっと疲れたら読もう、と思って、軽めの本。何人かの女性作家さんの短編集ですが、ワタクシはこの中では森絵都さんが好きなので借りました。

こうして船で読む本の選択はすぐに決まるのに、着ていく服が決まらないのはいつものこと。そもそも服をあまり持っていない、ということはありますが。

まぁしかし、今回は人前で発表するとか、そういうことがあるわけでなし、なんだっていいのですが、暑いか寒いか、とかその辺でも迷うでしょ。

この年になってもヒトさまのお下がりばかり着ているワタクシは、そろそろ新しいお下がり(?)が欲しいな、などと思っている今日この頃、いやたまには買ってもいいんじゃないか、などとも思っていて、家族のお土産ばかりではなく、よーし今回は長崎で自分の服の一つでも買おうかな、と思ったり。

たまには、そうやって街をウロウロするのも楽しみです。

いやもちろん、女性農業委員としてのお役目もしっかり果たしますよ。ホントホント。

ではでは、行ってきます。

by sanahefuji | 2018-09-19 06:24 | | Comments(0)

心の支柱

図書館の本の返却期限が8月1日だったので、どうしても返さねば、と思って昨日図書館に行きました。

本当にお恥ずかしい話ですが、ワタクシは返却日を守らない常習犯で、いつも遅れてしまうので、そういうところがイカンのだ、と思い、絶対に返却日を守ろうと心に決めていたところだったのです。一事が万事と言いますからな。

それで昨日、図書館に行ったらばですね、この本がまるでワタクシを待っていてくれたかのように、そこにありました。
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迷いの多いワタクシに一筋の光明をもたらして下さるに違いないこの本、さっそく借りてきました。

いつの間にかワタクシも四十路の半ばを過ぎ、もし長生きできたとしても、既に人生の半ばを過ぎたわけなので、残された自分の人生の時間や労力を何にかけるのか、ということを考えた時、自分の中でそのことはもう明白です。

以前にも書いたことがありますが、自分にとって幸せな出会いや経験をたくさん与えてくれた「農業」「合唱」「田舎の暮らし」これらのために自分が出来る限りのことをする、ということです。

そして、前々からその3つの他に「言葉」ということを入れたいという思いもありました。

人間が育つためには食べるものや環境なども大切ですが、この「言葉」の重要性というのを、最近特に感じるからです。

もう随分と前のことですが、いつものように土曜日の早朝に「木ノ口かたし」の開店準備をしながらラジオ深夜便を聞いていると、その時「明日への言葉」というコーナーで「心をほぐす詩の授業 奈良少年刑務所での取り組み」というのをやっていました。

この題名通り、奈良少年刑務所で、作家で詩人の寮美千子さんという方が、少年受刑者に詩の授業をした9年間の取り組みについて語って下さっていたのですが、少年たちの閉ざされた心が詩の授業によって徐々に開かれていく様子、少年たちの作った詩にワタクシは大変感銘を受けました。

最後に、一人の少年がお母さんを思って作った「空が青いから白をえらんだのです」という詩にシンガーソングライターの方が曲をつけて歌っている歌が流れたのですが、それを聞いたワタクシはもう本当に涙涙で、朝っぱらから随分と泣きました。

この少年たちが、刑務所に来る前に、そういう授業を受ける機会があったら、自分の気持ちを表す「言葉」を持っていてそれを聞いてくれる人がいたら、罪を犯すことはなかったのではないか、というようなことは寮美千子さんも仰っていたと思いますが、ワタクシも本当にそうだと思いました。


やはり以前に、元NHKアナウンサーの山根基世さんが五島に講演にいらした、ということを書きましたけれども、その時に聞いた印象的な話が最近読んだ御著書の中にありました。

作家の立松和平氏との対談の中で、

「私は今、子どもの言葉を育てる、ということを目標に掲げて活動しているけれど、とにかく子どもの言葉は地域の人との繋がりをもう1回繋ぎ直すところからはじめないと育たないと思って。
 だから地域づくりと絡めて、一つの共同体ができて、子どもの言葉を育ててゆく、こういう形を全国に作っていきたいと思っているんだけど、ああ、そっか、これは立松さんが言ってたことと同じだって。」

というような箇所がありましたので、それをここに記しておきたいと思います。

世の大きな流れは明らかに別の方向に流れ続けている、と思いますが、たとえ小さな力しかなかったとしても、ワタクシも何か出来ることをしたい、と思っています。

昨日借りた石牟礼道子さんの、この御本をパラリとめくって1ページ読んだところで、じーん、として、そんなふうに思ったのです。

フト、顔を上げるとそこには、ちゃんとこんな標示が掲げてある!
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そうだそうだ、そうなんだ。その大志は何も世間の誰もが「おぉ」と思うようなことでなくてもいいのだ、とも思いました。どっちにしても少数派の人生です。でもその中で、自分が美しいと思うもの、大切だと思うもの、を、きちんと守っていけるような力が欲しい、と思います。

と、まぁこのようなことを、ここに書き連ねているのも、ワタクシの心はじつにフラフラとしていて、言ってることとやっていることが一致してなかったり、決めたことを守れなかったり、タイヘンに弱いからなんです。

もともとがデラシネ(根なし草)気質、旅人気質で、いつ糸の切れた凧のようになってしまうか分からない、という恐怖も自分の中にあるのです。

あ、そうそう、ギリギリ体質もやっぱり変わらない。

子供の合唱の衣装、難しいところは他のお母さんがやって下さっていて、自分は簡単なことだけすればいいというのに、それが明日までなだというのに、終わってないんです、トホホ。

情けなし。

では、今からガンバリマス。

こんなの書かずに、そっちを先にやればヨカッタのですね。

しかし、ワタクシは心の支柱ともいうべき、石牟礼道子さんの新しい本が手元にあって、それが嬉しくて仕方なくて、書かずにはいられなかったのです。









by sanahefuji | 2018-08-02 22:27 | | Comments(0)

苦しくて苦しくて楽しい

昨日は大雨でした。

雨が降ったら農家のヒトって何をしてるんだろう、と思われたりしていると思いますが、というか、ワタクシなどは、このヒト一体何をしているんだろうか、と思われているような人種に違いないのですが、自営業というのは、やることは本当に限りなくあるもんです。その上、農業委員など、地域の頼まれ仕事なんかも複数あったりして、貧乏暇なしの見本のようなもんですな。

今は農繁期ですが、外の仕事が出来なければ事務仕事なんかも、たまりにたまっているし、家事と一緒でやりだしたらキリがないのです。

で、昨日のような大雨の時にでも、やればいいものを、昨日は2度目の「なんちゃってルポルタージュ」の原稿を書いていました。例によって、また地域の「公民館だより」に先月行われた、アサ&サトたちの中総体の記事を載せるのです。

これを書くために、ワタクシは中学校に歴代の卒業文集まで見に行ったり、インタビューをしたり、まぁとにかく相当な取材(?)活動をしたのでした。

ところが記事の文字数は前と同じく800字程度なのです。つまりたったの原稿用紙2枚ほど。いろんなことを書きたいもんだから、全然収まらないし、まとまらないし、簡単に考えていたところが、ちっとも進まず、相当に苦しむことになりました。

昨日は朝の3時半くらいに起きて、それまで少し書いていた続きを書き始めましたが、午前中には仕上げるはずが、全く出来ず。

そうなると、ジリジリと焦り始め、ますます混乱するばかり。

もう七転八倒というくらいに、出来ない出来ない出来ない、どうしようとなりまして、晩ごはんの準備もできないから、もうラーメン、とかになってしまって(子供は大喜び)、一体何をやっているんだワタクシは、文章なんか全然書けやしないんだ、と落ち込み、疲れ果て、ボロボロになり、夜になり、もう一旦寝よう、と思って布団に入っても、今度は眠れず。

仕方なく起き出してまた、清書のためのパソコンに向かうと、不思議なことに、やっとスーッとまとまっていって、なんとか仕上げることが出来ました。

それが今日の午前2時ごろのこと。

たったの800字に、なんという膨大な時間を費やしてしまったのだろう、と思うのですが、これが快感で。

あんなに苦しんだのに、それが出来上がってしまうと、気持ちが良くて、もう最高の気分になってしまう、という、この「ヤバイ感じ」を味わってしまったのです。

コレってまるで、何か薬の作用みたいだなぁ、と。

もしかして走っているヒトなんかもこうなるの?

と思ったり。

というわけで、今日は最高の気分。

出来栄えなんかは、どうだっていい、というか、一応出来たんだからそれでいい、という感じで。内容などは、どっちみちたいしたものではないんです。出来あがった達成感というか充実感というか、苦しみから解放された開放感というか、それがすごくあって。

ご褒美に読みたかった本を借りてきてしまいました。
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農家や主婦にとって読み書きは大敵です。というのも、読み書きを始めると、動かなくなって何もはかどらなくなるからです。前に書いたことがありますが、父親が「昔のヒトは本を読むもんは怠け者っち、いいよった」と言っていたくらいです。

本当にそれはその通りで、本を読みだすと誰も動かないので、わが家では読書はけっこう煙たがられてます。

でも面白いですもんねぇ。書く方も、この苦しくて楽しい快感を味わってしまったので、まだまだやりたいです。

ナマケモノ人生はやめられません。





by sanahefuji | 2018-06-20 13:04 | | Comments(0)

キーワードは多様性

なんとなく図書館で手に取ったこの本、
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こういう類の本は字が小さくて分厚い上に、外国映画の吹き替え版のような雰囲気が合わなくて読み進められずに挫折、ということもあるのですが、思った以上に面白くて興味深い内容でした。

ワタクシはダイエットに興味があったのではなくて、食べ物や食べ方の情報が氾濫している中で、何かそれについて考える指標のようなものが得られないかと思ったのです。

今の世の中、とにかく食べ物についての情報は膨大で、何を食べた方がいい、とか、あるいは食べない方がいい、とか、体にいいとか悪いとか、こうして食べた方がいい、とかなんとかかんとか、もはやワタクシには何が何だかさっぱり分からない感じです。

かく言うワタクシは、食についてこだわっている、と思われがちですが、実は「特別なことは何もしていない」と言えます。

何かを食べない、とか避けている、というものもないし、健康のためにやっている食習慣、というのも特にないのです。少し無頓着すぎるかもしれない、と思っているところです。

なので、世に氾濫する「これを食べれば~」とか「これは食べない方が~」とかいう話は一体どこまで本当なのだろうか、という思いがあり、またそれらをどう考えればいいのだろうか、という思いもありました。

そして、この本に書かれてある一つの真実に納得しました。

それは、誰一人として同じ腸内細菌を持ったヒトはいないから、食べたものに対する体の反応は一人一人みんな違う、ということです。

著者は長年、双子を対象にした研究なども行っているそうですが、同じ遺伝子を持ち、同じ環境で同じ食べ物を食べて育っても、一方は太り、もう一方は太らない、ということもあり、それを説明するのに、腸内細菌のコミュニティの違い、ということがありそうです。

そして、確実に言えることは、例えばアフリカなどの民族で伝統的な暮らしを守っている人は現代文明の中で暮らしている人よりも腸内細菌の種類が多く、多様性に富んでいる、ということだそうです。

ヒトの健康を司る一つの鍵は「腸内細菌の多様性」、ということが言えそうです。

だからと言って、今流行りの、腸まで届くなんとか菌、というのが誰にでも有効ということはないし、これを食べれば大丈夫、というような魔法の食べ物もない、というのは、前述したように腸内の環境は一人一人みんな違うからです。

そしてこの本の中で、ワタクシにとっては、実に実に興味深い記述がアレルギーに関する項目にありました。

その部分をそのまま書いてみます。

「新生児のときに多様性に富んだマイクロバイオーム(人間の腸や口腔、あるいは土壌中にある微生物のコミュニティ)をもっていることは、将来のアレルギーのリスクを減らす上で不可欠のようだ。その多様性をもたらすのは母乳だが、それを支えているのは、母親の健康的な食事であり、遅めの離乳であり、家がそれほど清潔でないことだ。」

この最後の「家が清潔でない」というところに「おっ」と思ったワタクシがさらに読み進めていきますと、

「衛生仮説と清潔ヒステリー」という中見出しがあり、このように続いていました。

「アレルギーに関心のある人なら、『衛生仮説』という言葉を聞いたことがあるかもしれない。この仮説の生みの親であるデイヴィット・ストラカンは、子どものぜんそくや湿疹の発生状況を誕生時から追跡した全国規模のデータを見て、強い興味を持った。ストラカンが気づいたのは、イギリスでは湿気の多い住環境とアレルギーの発症の間に相関関係があることだった。ただしその相関関係は、直感的に予想されるようなものではなかった。湿気の多い劣悪な住環境や、家族が多くて狭苦しい家のほうが、実際にはアレルギーが起こりにくかったのだ。」

ここまで読んで、この最後の文章、すなわち「湿気の多い」「家族が多くて狭苦しい家」というのは、まさにわが家のことではないか!と苦笑、しかし、確かに家族全員、誰も何のアレルギーもありません。

そしてさらに読み進めていくと、
 
「この結果は、バイアスの原因となりうる別の要素を調整しても変わらず、ほかの国でも裏付けとなるデータが得られている。このようにして、行きすぎた衛生観念が現代のアレルギー疾患の原因となったという仮説が生まれたのだ。
 あまり衛生的でない環境で、日常的に動物と接したり、寄生虫に感染したりしながら育った人というのは、せんそくやアレルギーにかからないようだった。」

とあり、「そうか、そうだったのか!」と激しく納得したことでした。

さらに長文ですが、この章の最後の文章を、ワタクシはどうしてもここに紹介しておきたいと思います。

「アレルギーをもつ子どもの母親の多くは、罪悪感に苛まれて、死をもたらすほど危険なアレルゲンの攻撃から子どもたちを守ろうとする。アレルゲンを含むほこりや動物の毛を取り除いて、自分の家を、無菌実験室として使えるほど清潔な状態に保とうと大変な労力を費やしているのだ。そればかりでなく、ナッツやグルテン、小麦、卵がほんのひとかけらでも食物に入り込むのを心配するあまり、食事をしていても、ボルジア家の祝宴に出ているような気分になってしまう人もいる。
 ナッツアレルギーが死につながる場合があるのを考えれば、この不安はもちろん理解できる。しかしその一方で、家を農場のような状態にしてペットや、なんならブタを飼ったりすると、アレルギーの発症率が高くなるどころか、むしろ低くなるという研究もある。ペットと暮らすことには、長生き、アレルギーの低減、うつになりにくくなる、など健康上のメリットがいくつかある。そうしたメリットの一部は、ペットの毛の汚れだけでなく、多様性に富んだペットの腸内細菌からもたらされるものだ。
 汚れや多様性を友人として受け入れること、そして食物不耐性が重大な病気だという考えを捨て去ることは、たしかに難しい注文なのだろう。しかし、次の世代のことを考えるなら、それは重要なことだと言えるかもしれない。」

最後の一文にワタクシは殆ど泣きそうになってしまいました。

人間以外の生き物を、何か汚いモノ不潔なモノ、あたかも「バイ菌の塊」のように思って排除しようとする傾向に、ワタクシはものすごく心を痛めていたし、また、その不寛容な世の中に、危機感を持っていたからです。

「汚れや多様性を友人として受け入れること、それが次世代のために重要」ということを、最先端の研究をしている科学者が言って下さっていることは、大きな希望になりました。

あ、だからといって、家やお店、それに農場を汚れ放題にするわけでは、もちろんありません。普通に清潔な環境にしておく努力は、自分にとっては最も必要なこと、ということには変わりありません。苦手な掃除をしなくていい、という理由にはなりませんから。

しかしながら、「うとん山農場」&「木ノ口かたし」の田んぼの活動、動物たちとのふれあい体験、みんなでする味噌作りなどなどは、皆さまの腸内細菌の多様性のためにも実に貢献できる活動ではないか、と思い、ますます自信を持って進めていきたい、と思った次第でありました。

そして、また「田舎での子育て」をおススメできる大きな利点が一つ、追加されたような気がします。

そんな理屈を抜きにしても、田舎での子育ては楽しいのですから、ワタクシはいつでもおススメいたします。























by sanahefuji | 2017-10-20 07:57 | | Comments(0)

読書の楽しみ

昨日は授業参観で、全校生徒が水泳の授業でした。

その後、学級の話し合いがあり、全国一斉に行われる学力テストの結果についての話がありました。それによると長崎県は全国で比べてみるとと点数がかなり低い方であり、また、長崎県の中でも五島はさらに低い、ということでした。

それで先生方も子供たちの学力をつけるために、ということで、家庭学習の様子などを聞かれてました。

ワタクシがサトを見ていると、常に宿題や自学などの家庭学習は後回しにして、学校から帰ってきたらいつまでものんびり本を読んでいる感じなので先生にも正直にそう申し述べたのですが、他のお母さんたちは違いました。もっときっちり子供にやるべきことをやらせている、という感じなのでワタクシなど不肖の母親は感心するばかりです。

「こうしなさい」「ああしなさい」などということを子供に言う時、自分が出来ていないことだと途端に説得力がなくなるもので、やるべきことを後回しにして本を読んでしまう、というようなことは、まさに今もワタクシがいつもやってしまうことであるからして、サトのそういうところを見ていると、まるで自分のことのようだ、と思ってしまうのです。

なので、ワタクシ「やることを先にやってから、本を読んだり後でゆっくりしなさいよ。そういう癖がついていたら将来ホント助かるんだから。」と実感を込めて言うことはできます。もうこれはホントにその通りなんですから。しかし子供には先のことが見えませんから、どこまで聞いていることやら。

子供は親の言うことよりもやることを見てしっかり真似するのだ、という見本のようなことですね。

しかし、本を読むってホント楽しくて面白いですからね。なかなかやめられないのも分かるのです。

夏休みにサトが買った「赤毛のアン」を、この間パラパラとめくって読んでいたところ、自分が子供の時に読んだのとはまるで違う感覚になるのに驚きました。あれ、赤毛のアンって、こんな静かな感動で泣ける話だっけ?というように。

自分の経験値が上がっているから、人生の機微というか、細かいことがいろいろ分かるようになっているんですね。読書にはこういう楽しみもあるんだなぁ、と思いました。

普段は、なかなかまとまった読書の時間というのはとれませんが、どこかに出かけるとなると、それが可能になります。そう、船の中です。

本日は、また農業委員の研修が諫早であるので、それに行くことになりまして、早速図書館で本を借りてきました。少し涼しくなってくると、推理小説などがいい感じだなぁ、と思って、なかなか有名なコレ。
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ドラマなんかにもなったんじゃなかったかな。でもワタクシは読んだことがないので借りてみました。

読み終えたら困るから、その「赤毛のアン」と昨日、小学校の図書館で手にとって、これは読まねば、と思った本も持って行こうと思います。
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残念ながら、とワタクシは大いに言いたいのですが、今回はジェットフォイルなので行きは船の時間が短いのです。フェリーの方が断然いいのですが。

こんなこと言っていては、まるで遊びに行くようでイケマセンが、ワタクシはもう何十年も農業について大真面目にいつも考えているのであるからして、農業委員の研修もきちんと受けてきますよ。ホントホント。

それでは、皆様も良い一日をお過ごし下さいませ。




by sanahefuji | 2017-09-06 07:48 | | Comments(0)

対岸の彼女

長崎港のターミナルの売店に、古本コーナーというのがあって、何年か前にワタクシはそこで松本清張の文庫本を確かほんの百何十円かで2冊買った、ということがあったので、あのコーナーってまだあるんだろうかと思って売店に行ってみたら、ありました。

古本コーナーは新しい本を売っている隣に並んでちゃんと存在しておりました。

前と違うのは、古本とは言っても、割と新しい本が並んでいて、値段も百円とかではなくて定価の半額くらいで売っていた、ということです。

その中にあった本が表題の「対岸の彼女」という角田光代著の本。

なんとなく手にとって、1ページ目を開き、最初の1行を見た時、本当にドッキリして、あ、これ買って読もう、と思いました。

その1行目とは、

「私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう。」

という、幼い子供を連れて公園に行きはするものの、ママ仲間になじめず公園を転々としてしまう小夜子という女性の独白です。

すぐに買って読もう、と思ったのは、自分のことがここに書かれてある、と感じたからです。

実際にはワタクシ自身の子育ての場合、子供が小さい時から保育園に預けて農作業などをしていたし、途中からは「かたし」を始めたので子供はそこで遊んでいて、ワタクシはそこで井戸端会議をしていたから公園デビューなんてものとも無縁だし、従ってママ友、と呼ばれるような友達もいなかったのですが、もしも自分がこの小夜子の立場だったら、まったく同じようにママ仲間になじめず公園を転々とし、そして冒頭の独白のようなことを思ったに違いないのです。

というか、今もまさに、そのようなこと、つまり「私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう。」というようなことを思うことがよくあるのです。

年齢を重ねると前よりいろいろなことが上手くできるようになったりはするけれど、人間ってそうそう変わるもんじゃない、というより本質的な部分は実は全然変わらないんじゃないか、と思うことが多いのです。

今考えると、ワタクシは女同士の関係性というものに、ずっと疎かった、と思います。こんなに疎くてよく大丈夫だったな、と思うくらいです。なぜ大丈夫だったかと言えば、いつの時代も特別に優しいヒトが周りに一人か二人くらいはいて、この疎いワタクシと仲良くしてくれたからなのです。

それはとても恵まれていたことですが、物事には良い面があれば、それに伴う短所もあるもので、この件に関して言えば、そういう優しいヒトビトにいつも出会えていたことで、ワタクシはキビシイ女社会で生きる術を身につける機会がないままこの年になってしまった、ということが挙げられます。

だからでしょうか、学生時代までよりもむしろ、成人して母親になってからの方が戸惑うことが増えました。

その度に、いろんなことが何も見えてない、馬鹿すぎる、と男である夫に言われるくらいなのでした。

そういう夫はかつて中学女子のひどい仕打ちに遭った経験があるためか、一応女であるワタクシよりもそういうことがよく見えるようで、感心します。

ワタクシが母親として女としてボンヤリしていることを夫がよく理解してくれている、ということはありがたいことですが、自分ではやっぱり「私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう。」と思う、というわけです。

対岸の彼女、読んでヨカッタです。

いろいろあるけれど、タイヘンだけど、読んだ後は少し勇気が湧いてくる、もうちょっとガンバッテみよう、という気持ちになる、そんな本でした。

作家ってスゴイなあ、と思います。































by sanahefuji | 2017-07-28 06:22 | | Comments(0)

この夏の本 Best2

9月になって、朝晩はすっかり秋らしくなり、夏休みも遠い思い出のような気がする今日この頃ですが、ワタクシが夏に読んだ本(たいしてないんだけど)の中で良かったものを記録しておきたいと思います。
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まずは左、小さい本ですが若冲の絵がたくさんあって、本当に面白く楽しい本です。ワタクシの父親は絵描きだった、ということは前にも何度か書きましたが、だからと言ってワタクシは特に絵に興味があるわけでもなく、自分でも殆ど描かないのです。

しかし、この江戸時代の画家、若冲というヒトの絵にはとても惹かれます。それはこのヒトが「生き物」の本質を描いているからだと思います。

特に鶏が有名ですが、まいにち鶏を見ているワタクシなどは、若冲の鶏の絵を見ると、感動で打ち震えるような心持がします。

生命力がみなぎった状態の動物というのは本当に美しくて見ていて飽きないほどですが、それをこんなに的確に描けるヒトってちょっといない、と思います。

花鳥風月はもちろんのこと、そういう艶やかでない題材の野菜とか海の生き物などなどの絵も全く同じように活き活きとした美しさで、それらの絵を見ていると、改めてそういう活き活きとした自然に囲まれている幸せを感じずにはいられません。

動物とか鳥とか植物とか、つまり自然というのは見たまま感じたまま「そのまま」で付き合えて、誤魔化すことがない代わりに、こちらの誤魔化しも通用しない、厳しさも優しさも誰にでも平等で潔い世界です。

その点、人間世界はムズカシイですね。例えば言葉と行動が違っていたりして、「そのまま」でないこともあるし、誤魔化されることも誤魔化すことも多々ある。なので混乱してしまうことも多いですが、それが人間世界の面白さを生み出している、と言えるのかもしれません。

人間は完璧な存在ではないからこそ文学や芸術などが生まれるに違いないのですから。

右の短編集は、若冲の世界とはうって変わって、そういう人間世界の機微を描いた作品です。

しかし、書く時間がなくなったので、それについては次の機会に回したいと思います。

それでは今日も一日、みなさまにとっても良い日でありますように。


by sanahefuji | 2016-09-08 06:51 | | Comments(0)

ここは五島列島福江島 「かたし」とは椿の古い呼び名です。Iターンで新規就農した私達が週に一度だけやっている直売所「かたし」での出来事、農家暮らしの日常などなど。日本の端っこで繰り広げられる人生劇場を綴っていきます。


by sanahefuji