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ドクダミは何故かわいい

こんにちは。

ブルーベリー畑の中でもほんの数本の早生のブルーベリー、これが、激しくイノシシの被害に遭っていて、根元がまるで落とし穴のようになっているのですが、なんとか実をつけてくれまして、なんとか明日のケーキ分だけは集めてきました。
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冷凍ではない、新鮮なブルーベリーだから、きっと美味しいと思います。でも、来週の分まであるかどうかは分かりませんが。

草だらけのブルーベリー畑は、まだなかなかキレイになりませんで、しかも、去年の夏にかけたままの魚網の端っこが、草に巻かれて、さらに土に埋まっていたりして、もうホントにタイヘンなことになっていて、ワタクシは自業自得の苦しみを味わっているところだったのですが、こうして明日のケーキ分が採れたことは朗報です。

遅々として進まないブルーベリー畑の整備をしつつ、二日酔いの朝と同じくらい激しく後悔はしているのですが、また今年もきっと手は回らないのだろうな、という気もしております今日この頃、皆さまいかがお過ごしですか。今日はもう金曜日ですね。

いつの間にか5月も過ぎ去り、明日からは6月です。

例によって、園芸下手のワタクシが、数年前に小さな鉢植えのヤマアジサイというものを衝動買いしてしまったのですが、庭に植えたところ、鉢植えの時には実に可憐な小さな水色の花であったのが、庭では花が大きくなってしまい、しかも色も変わってまったく別物のようになってしまいました。
そして、今年は何故か花が一輪しか咲きませんでした。どうしてそうなるのか、ちっとも分かりませんが、その貴重な一輪のヤマアジサイ。
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昔から衝動買いの多いワタクシですが、財布にあまり金が入っていない、ということは幸いなことですね。高いものをうっかり買ってしまう、ということはないので。しかし、せっかく買ったのだから、ちゃんとお世話をして、たくさん花を咲かせてやりたいものです。アジサイなど、ほっといても花が咲くものだと思っていたのですが、園芸下手の手にかかると花も咲かないんだなぁ。ナンテコッタ。

そして、庭に植えた最初の頃は白い花だったのに、いつの間にか土壌がアルカリ性に変わったらしく、こんな色になってしまったのも悔やまれます。ワタクシはアジサイは白~青系統が好みなので。

そんなアジサイが咲く季節、ドクダミもひっそりと咲いてます。
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ドクダミ、かわいい。

ドクダミの魅力はなんといってもバランスですね。色のバランス、姿形のバランスがタイヘンよろしい。毎年、惚れ惚れします。そして何も世話をしなくても毎年、同じように咲いてくれる、という点でもスバラシイ。

ドクダミ、えらい。

明日の「木ノ口かたし」、そんなドクダミを飾ってお待ちしております。

ではでは、明日の「土曜日開店 木ノ口かたし」も、どうぞよろしくお願いいたします。













by sanahefuji | 2019-05-31 17:02 | 「かたし」のこと・商品について | Comments(0)

パンとワタクシ


君がぼくの暮らしの中から消えてしまって、もう随分と時間がたってしまったね。

ずっと、どうにかしたい、どうにかしたい、と思っていて、でも、どうすることも出来なくて、

結局ぼくは逃げてしまった。

どうすればいいのか、本当に分からなかったんだ。

何とかしようとしても、結局、中途半端なことしか出来ない自分がイヤになって、

ぼくは逃げ出したんだ。

君と、きちんと向き合う自信も勇気もなかった。

日々の暮らしに紛れて、君がいないことを忘れられる気がしていた。

君でなくてはならないなんて、そんなことはない、と思おうとした。

でも、ぼくは気付いてしまった。

君の代わりになるものなんて、どこにもない、ということに。

君がいない暮らしは、いつも何かが足りなくて、いつも何かが欠けている、ということに。

不器用な自分が、上手くやれる自信なんて、全然ない。

自信は全然ないけど、諦めることも出来ない、ということがよく分かったんだ。

長い長い時間が必要だったけれど、やっとそのことに気がついたんだ。

だから、もう一度、ぼくにチャンスをくれないかな。

ぼくのこの暮らしの中には、君がいて、欲しいんだ。
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などという、ドラマになってしまいそうなほどの、ワタクシとパンの関係。

今日、ようやく新しいパンの発酵種に着手いたしました。

半年ほど前だったでしょうか、ワタクシはこのヒトのことを、いつも粉を買っているお店のチラシで知り、今度パンを焼く時には、このヒトのレシピで焼いてみたい、と思って、すぐに本を買ったのです。

でも、それは長いこと、積んだままで、日の目を見ることがなかったのでした。

が、しかし、ようやく、今日になって本を開き、発酵種をやっと作りましたのです。

上手くいくかどうか、ホントに自信はありません。それを続けていけるかどうか、も。

でもホントにホントに、またやりたい、やってみたい、と心から思ったのです。

パンについては、一度だってちゃんと出来たと思えたことがなくて、殆ど挫折していた、と言ってもいいかもしれません。

だから、結果がどうであれ、もう一度やってみたくなったということが、素直に嬉しいワタクシです。
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この小麦も、少しブレンドして使えたりしたら、それはますます、嬉しいんだけどな。

晴れた日が続きますように。















by sanahefuji | 2019-05-30 18:12 | 雑記 | Comments(2)

一日、胸ときめく時間

おはようございます。

今日は弁当が間に合いました。もう6月になろうかというのに、まだそんなことを言っているのですが、この弁当作りにも、だんだん慣れてきて、あまり負担に感じなくなってきました。

というのも、この度の弁当作り、というのが2番目の子供ということで、やっぱり一番最初の子供の時よりも、慣れてくるから、ということがあります。これって、赤ちゃんのお世話なんかと全く一緒の感覚です。

どういうことか、と言いますと、自分が初めて赤ちゃんを産んだ時、というのは、とにかく何も分からなくて、融通も利かなくて、とにかくタイヘンなのですが、2人目になると、「あれ、なんでこんなに楽なんだろう」「あれ、どうして一人目の時はこんなことで悩んでいたんだろう」という具合に、一気に肩の力が抜けて、赤ちゃんを扱えるようになってくる、というもの。

弁当作りもそんな感覚があるのです。

例えば、一人目のハナの時には、弁当に冷凍食品を入れる、などということに思いが至らなくて、殆ど買ったこともなかったのですが、今回は「あっそうか、別に冷凍食品を使ってもいいんだ」という考えが浮かび、何もない時に隙間を埋めるのに、こんな便利なものもないなぁ、と思い、いやーホント現代って便利だな、と朝から感動したりしています。

これって、赤ちゃん時代に、やっぱり一人目の時はワタクシは紙オムツというのを殆ど使わなかったのですが、そう、夜も旅行なんかの時も、とにかく布オムツを使っていたのですがね、二人目には、夜は紙オムツでもいいや、ということにしたら、もうホントに楽で、いやーなんてラクなんだろう、現代ってありがたい、と感動した、ということがありましたなぁ。

一人目の時だって別にそれでも全然よかったのに、なんかコチコチに凝り固まっていて「こうしなければ!!」みたいな気持ちでいっぱいだったのです。良く言えば、まぁ生真面目だったのですね。

その時ワタクシは電化製品などにあまり頼ってもいけない、などと思い、洗濯機も持ってなかったりして、オムツの洗濯もタライでしていたのです。アホというかなんというか、なんか極端なんですよ。

でも、その時はやっぱり「そうしなければ!!」と思っていたのですね。

とにかく、電気をあまり使わない方が良い、というような考えで、テレビも何年も持ってなくて、その間に世間のことは何も分からなくなっていましたが、今となっては子供たちが小遣いをためて買ったテレビを何のギモンもなく見ていて、少し普通に世間のことが分かるようになりました(?)。

いや、やっぱり疎いのは変わらないと思いますが。

でも、その生真面目だった時代、というのがワタクシにとっては大事な時期だったのかもしれない、とも思います。今はすっかり堕落してますけど、一時期だけでも、もともとだらしないワタクシが生真面目に出来た時もあったのだ、ということで。

そして、その若くて融通が利かないが故の生真面目な部分、というのは大事なものを含んでいるので、もっと柔軟にする必要はあるけれど、きちんとそこに戻っていけるような工夫をしていきたい、という気持ちもあるのです。

弁当作り一つとっても、そういうことを考える良い機会となり、ありがたいことだな、と思います。


もう随分前に植えた、農場の梅の木から梅が採れるようになりました。
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生きているものは、少しずつ成長していくのが、嬉しいな、と思います。

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ほんの数本しかない、早生のブルーベリーが、早くも色づいているので、ひょっとして今週のケーキに使えるかな、と思ったり。

生きているものは、成長もするけど、それは年も取ります。
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何年か前に、わが家にやって来たジョンも、随分おじいさんになった感じ。
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ミーコ、そろそろ10歳。ミーコのこのベット(?)は、仲良しのコータロー作。なかなか気に入っていて、昼間はいつもここで寝ています。

アサが高校の授業で使うから、ジョンとミーコの写真を現像しておいて、などという電話がかかってきたので、写真を撮ったのです。たまにはこうして、ちゃんと写真を撮るのもいいですね。

生きているものは、成長して、年をとって、死んでいく、当たり前だけど、その時間が、その一日一日がホントに貴重で、ありがたいな、と思う今日この頃でございます。

ではでは本日も、皆さまにとって良い一日でありますように。



この間、ドイツ語講座のテキストを引っ張り出したついでに、時々パラパラと見ては、その時習った歌を聞いています。なつかしい!!
今日は「Das gibt's nur einmal(ただ一度だけ)」という歌を聞きたいなぁ、と思いましたので。歌詞を思い出しながら口ずさんでいると、なんとも心地いいのです。やっぱりドイツ語、好きなんだなぁ。また勉強したいです。



ただ一度だけ、二度とやって来ない、Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder

今日の日に。















by sanahefuji | 2019-05-30 08:06 | 雑記 | Comments(0)

空が青いから白をえらんだのです

おはようございます。

昨日は、またひどい事件があって、ワタクシはここに能天気なことを書く気になりませんで、以前、やっぱり土曜日の朝に聞いているラジオで、大阪の池田小学校での事件で、娘さんが被害に遭ったお母さんがお話をされていたことがあって、そのことなどを思い出していました。

それはあまりにも酷い事件であり、辛過ぎる出来事で、聞くのも辛い話でした。

その時に、そのお母さんのお話の中で印象深かったのは、その悲しみが癒えること、というのは、決してないけれど、そのような事件を起こす加害者を作らない社会にしなければならないのではないか、事件を起こしたこの人のことを、誰か一人でも理解してくれる人がいたなら、こんな事件は起こさなかったのではないか、ということに思いが至ってきた、というようなこと、を仰っていたことです。

それを聞いたのは、もう随分前のことで、正確ではないかもしれませんが。


そして、やはりこれも土曜日の朝のラジオで聞いた話、このことは前にここにも書いたことがありますが、奈良少年刑務所で詩の授業をしていた、詩人の寮美千子さんの話も思い出していました。

そのことについて、書いた日記→心の支柱

いろいろな事件が起こる度、取り締まりを強化したり、監視カメラを増やしたり、そういう流れになっていくのも分かりますが、でもいくら取り締まりをしても、今回の事件に使ったような包丁はお刺身を切るためのもので、うちにだってあるし、誰だって手に入れられるのです。

そんな気になれば、ワタクシたちがごくごく普通に使っている車でだって、何人もの命を一瞬にして奪うことが出来るのです。

だからいくら罪の厳罰化をしてみても、事件はなくならないのだと思います。

こんなに便利で快適な暮らしが出来るはずの世の中で、孤独と絶望を感じるヒトビトが大勢いるのは、何故なんだろう。

もしかすると、それはあまりにも人間中心の便利さや快適さを追求し過ぎていることとも、関係があるのでは、ないのかな、と思ったり。

あんまり朝から暗い気持ちになってしまうのも、ナンですから、奈良少年刑務所の受刑者の少年が作った、一行の詩に曲をつけた歌を一つ。



一つの言葉、一つの詩、そんなささやかなものが、人の心を救ってくれることも、あるのかもしれない、と思います。



by sanahefuji | 2019-05-29 09:05 | 雑記 | Comments(0)

昨日のしくじり 今日の敗因

昨日書かなかったから、というわけでもないのですが、本日2回目。

実はワタクシ、今日は一日中ヒドく気分が悪くて、まぁ雨だったからコレ幸い、とばかりに、不毛な一日を過ごしてしまいました。そう、実は二日酔いだったのです。

二日酔い、なんて何年ぶりか、というくらいのことです。というのも、ワタクシは最近は殆どお酒を飲まないからです。飲み会などでお酒を飲まなくても楽しく過ごせるようになってからというもの、特にお酒を飲む必要がない、ということに気がついたからです。

そう考えると、前はやたらと飲んでいたのは、とにかく緊張しているのを早く紛らわしたいためだったのだ、と思います。

でも、そういうヒトって多いんじゃないかな。これ前に書きましたけど、ワタクシのブログに「酒飲まないと話せない」などという言葉を検索して入って来られた方もおりましたもの。男のヒトは特に多いのではないかしら。

ワタクシの夫なども、酒が入らないと、とにかく寡黙でムッツリしていますけど、酒が入れば上機嫌で、それはそれは明るく、よく喋るようになりますから。あんまりペラペラなんでも喋るので、ちょっとコワイのですが、幸い今までワタクシのやってきた悪事の数々、などは喋らないようなので、その辺はエライというか感心というか、男ってやっぱり女に比べると口が堅く、そして心根が優しいんだな、と思います。

それで、昨日ワタクシはなんでそんなに酔っ払ってしまったのか、と言いますと、まず一次会の時はノンアルビールなどを飲みつつも、この時に殆ど食べ物を何も食べていなかったのに、二次会で「木ノ口かたし」に戻った途端に、何だかホッとして、そして少し暑かったのもあって、ちょっとだけビールを飲んで、それでやめておけばよかったのに、ある種の心労から解放されて、それが分かるヒトとワインでカンパイしたら、もうホントにホッとしてしまい、ついつい勧められるままに飲み過ぎてしまったのでした。

空きっ腹なのを忘れて、いきなりワインなど飲んでしまった、というのが昨日のしくじり、今日の敗因、です。

朝から気分は最悪で、「うーうー」とうなっているワタクシに対して、昨日、中総体でガンバッた「リベロのサッちゃん」は、「寝とけば」などと優しいことを言って、「木ノ口かたし 夜の部」の「どんちゃん騒ぎ」の後片付けを全部してくれました。

ありがたいことでした。

そしてワタクシは、今ごろになって、やっと気分が良くなってきました。

もう空きっ腹でワインなど、絶対に飲まないようにしよう、と心に固く誓ったワタクシです。









by sanahefuji | 2019-05-27 21:25 | 雑記 | Comments(0)

苦楽を共にする

こんにちは。

昨日はまた空白を作ってしまいました。昨日は五島市の中総体があったのです。

それで、昼過ぎまではバレーの応援に行き、午後からは「鶏おこわ」を2升作って、それをおにぎりにしました。というのも、夕方に公民館で行われる打ち上げの料理の一つとして、ご注文をいただいていたからです。

この、中総体というのが、運動部にとっては一年で一番重要な大会であるので、毎年ワタクシは、この中総体本番の数日前の練習の時に、この「鶏おこわ」のおにぎりを差し入れていました。

そしたら、子供たちにも喜ばれて、今回、打ち上げにも、ということになったのでした。それはタイヘンありがたく、嬉しいことです。

公民館での打ち上げが終了した後は、いつもの如く「木ノ口かたし 夜の部」で2次会、という流れなのですが、この時も先生方や保護者、あるいは子供は学校にいないけれども応援に来て下さっている地域の方々などが集まって、それはそれはもう大盛り上がりで、ホント楽しそうなヨッパライばかり、これもタイヘンありがたく、嬉しいことです。

ここにも何度か書いたこともありますが、ワタクシはもともと飲み会の席というのが、接客同様、本当に苦手でした。だいたいの人に対して緊張するし、何を話していいのかも分からないし、例によって女の役割というのも苦手ですから、ああいう席で気を利かせて立ち働く、というのがどうやっていいか分からなくて疲れる、という感じですから、出来れば行きたくない、というタイプでした。

でも、五島にやって来て、とにかくここは飲み会が多い土地であるし、そういう場でなければ、よそから来た人(自分たちのことだけど)に話しかけたり出来ないヒトが殆どであるし、自分も地元のヒトを覚えられないし、ということで、苦手でもイヤでも、とにかく出来る限りは全て出席、小さかった子供たちも連れて、常に出席、ということを自分に課しました。

そうやって、繰り返し繰り返しの反復練習、というのは、そうスポーツでもなんでも一緒、なのですね。バレーなど全然出来なかった子供たちが、それらしくバレーの選手になっていくように、苦手でも慣れれば出来るようになるんだな、というのが最近の感想。

そして、一歩進んで、そこから何かを学んだり、自分にとって、いいことを見つけたり、楽しかったり、利益があったり、そんなふうになってきたんじゃないかな、と思います。

今、五島に移住してくるヒトビトがとっても多くなっています。ワタクシたちも移住者です。そんな移住者一人一人に移住して来る理由とか、求めるものは全部違うとは思いますが、どんな理由で来るにせよ、ワタクシは、よそから来るヒトビトが地元のヒトビトと「苦楽を共にする」という姿勢であって欲しいと思います。

地方の人口が少なくなっている、ということは、そこに住む人にとって都合の良くないこと、快適ではない理由、というのもやっぱり確実にあるわけで、でも、それも含めての、この地域なのだから、自分たちにとって快適なこと、楽しいこと、あるいはあからさまに利益だけを求めるのではなくて、「苦楽」の苦の部分も受け入れて欲しいと思います。

善良なだけの人間はいないし、光があれば影が出来るし、キレイなもの美しいものだけの世界もないのですから、まずはそれを「丸ごと受け入れる」、という覚悟は持って欲しいな、と思います。

まぁワタクシなどが、そんなエラそうなことを言える立場でもありませんが、どうしてそういうことを言うか、と言いますと、ワタクシ自身がそうやって「丸ごと全部を受け入れる」という気持ちになってからというもの、ここでの暮らしが本当に楽しく、豊かなものになっていったから、なのですね。

「楽しい」というのは、「楽」である、ということとは違います。

苦しくて、タイヘンで、でもその先にある「楽しさ」というのは、薄っぺらな表面的な「楽しさ」とは全然違います。

そのような豊かさ、を感じながら、生きていくって、なかなかいいものだ、とワタクシは、この五島の地で感じています。

余計なお世話ながら、せっかく移住して来たのですから、自分たちの持ってきた価値観の世界にとどまらず、地元のヒトビトと共に、そんなふうに生きていけたら、いいんじゃないかな、とワタクシは思うのですが。

どうでしょう?




















by sanahefuji | 2019-05-27 14:08 | 雑記 | Comments(0)

本日、肉まん最終日

予告通り、今日は肉まんの最終日でした。5月だというのに、日本のあちらこちらでは真夏日になってしまうくらい暑い日も多いので、肉まん販売も気温が低くなる11月までお休みです。今季も「木ノ口かたし」の肉まん、よく売れました。買って下さった皆皆さま、本当にありがとうございました。

わが家の小麦を粉にして肉まんに使えたら良かったのですが、刈り入れはまだまだ先です。でも、小麦たち、こんなに大きくなって、いい色になってきました。肉まんには間に合わなかったけど、「ふくれもち」には使えるんじゃないかな。おっと、まだ刈り入れるまで油断は禁物ですが。
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「肉まんは今週で終わりです」とブログに書いたり、店頭で言ったりしていたら、それはまるで「閉店セール」のような効果があって、昼前には完売してしまいました。人間って「これで終わり」「これで最後」というのに弱いのね。

普段は行ってなかったけど閉店する、ということになったら、行ってみようかと思ったり、特に仲良くしていたわけでなくても、これで最後と思えばお見送りくらいは行こうか、となったり、もしかして葬式なんかもそうなんだろうか、これで最後、と思えば行っておくか、というふうになるのかもしれないですな。

でもこれってどうなんだろう、例えばワタクシのことを「このクソ女」などと思っているヒトとか、あるいは「特に興味はないけど関係がないわけではないから」というくらいのヒトが、自分の葬式なんかに来てくれても全然嬉しくないと思いますから、本当にお別れをしたいと思うヒトだけが、ひっそりと集まってくれればいいと思いますけど。でも、現実はそういうわけにはいかないんでしょうね。

しかしまぁ、よく考えたら、これで終わりかもしれない、というのは、今、この瞬間だってその可能性はあるわけで、自分に明日が確実に来るかどうかなんて誰にも分からないことです。

今まで普通に続いていた何かを同じように続けていくことも、当たり前のようにいつも会っていた誰かに会うことも、もしかすると、明日突然、それが出来なくなることだって、あるかもしれないでしょう。

そのように考えると、いつだって「これが最後かもしれない」と思って生きられたら、もう少し力も湧いてくるだろうし、気持ちも込めていろいろできるんだろうけどな、とワタクシはいつも忸怩たる思いがしております。

というのも、今朝はちょいと目覚めが悪くて体の動きも悪く、準備もなんだかボケーッとしながらダラダラとしてしまっていたのです。だから、せっかくの肉まん最終日で飛ぶように売れたにも関わらず、そんな状態で作ってしまったことが悔しくて、あーナンテコッタ、これでは最後の肉まんに臨む姿勢では全然なかったなぁ、と反省していたのでございます。まぁでも、味見した時はなかなか美味しかったから、まぁいいかとは思ったのですけれど。

しかしワタクシがそのようにボケーッとした状態ではあっても、「木ノ口かたし」には、いつも心優しき良いお客さまばかりが訪れて下さいますから、あーなんてありがたいんだ、と思い、最後の肉まんには上手く臨めなかったけれど、もし今日が「木ノ口かたし」の従業員最後の日となっても恥ずかしくないようにしなければ、と思ったことは確かです。しかし、それがどういう状態で働ければ「恥ずかしくない」状態なのか、ということは具体的によく分からないんですけれども。

さて、そんな本日の「かたしのお昼ごはん」は、
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・アジの南蛮漬けふうアオサ天ぷら&新たまねぎ
・鶏肉とパプリカの炒め物
・切干大根のサラダ
・卵焼き
・ニンジンと糸コンニャクのキンピラ
・小松菜の海苔和え
・茶碗蒸し
・玉ねぎとキャベツの味噌汁
・カマド炊き白ごはん、古代米入り玄米ごはん
・オレンジピールとチョコチップと胡桃のケーキ

でした。

今日は肉まん最後の日、と思えば、何故かいろいろなことが愛おしく思える、それはおそらくワタクシの思考回路が単純なためなのでしょうが、お客さまの並んだ靴にも、何か感動してしまったワタクシです。
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このご家族の、こんなふうな小さな靴が並んでいる風景も、数年後にはもうない風景なんだな、とか。そう、子供の成長は本当に早いものですから。

そのように、なにかといちいち佇んでしまうワタクシですが、そのような感覚というのは「土曜日開店木ノ口かたしの台所」などでは、少しも必要のないこと、というよりむしろスムーズな準備の妨げにすらなるのです。

がしかししかし、ワタクシは敢えてそのような感覚を大切にした方が良い、と考えます。というのも、一方の料理長はワタクシが佇んでいる間にも3倍くらいの速さで働いているので、現実の進行というのはそちらがやってくれているわけです。

なのでワタクシは、動きがノロい分、あっ、「かたし」のこの光りの入り加減がいいんだよなぁ、とか、この感じが好き、などということをいつもいつも感じていたい、と思います。それがワタクシの割と重要な役割なのだと感じているのです。

今、道端なんかによく咲いている、何かの蔓草の花、これがとってもいい香りなので、飾っていたのですが、ちゃんと、そういうワタクシの心が伝わる、ということが今日も分かってワタクシはとっても嬉しかったのでした。
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そういう「見えない何か」が伝わるヒトにはちゃんと伝わる、ということが、ワタクシには本当に大切に思えるのです。

今日で最後かもしれない、いろいろなこと。

でも、明日があるなら、それはホントにシアワセなこと。














by sanahefuji | 2019-05-25 23:40 | 「かたし」のお昼ごはん | Comments(0)

昼下がりのバラに

おはようございます。

早いもので、今日はもう金曜日。

そして、明日は5月最後の土曜日で、肉まんの販売は今週でおしまいです。また11月に再開します。小麦粉は間に合わないけど、玉ねぎは、わが貧弱家庭菜園のものを今週は使えます。

その貧弱なわが家庭菜園に、ひょんなことからやって来てくれたカワイイ、しかし強い味方。
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これならワタクシでも、カンタンに扱えます。その向こうにあるのは耕耘機ですが、こっちの方は、エンジンをかける時に鉄製のハンドルをかなりの速さでグルグル回さなくてはならないのですが、家庭菜園同様に貧弱なワタクシはその段階で疲れ、この機械を扱うのを早々に諦めてしまった、という経緯がありますので、こちらの小さい機械で出来る範囲でチマチマとやろうと思います。

畑でフト顔を上げると、
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そこにバラが咲いている、というのが、やっぱり嬉しくて、しばしば手を止めて見つめてしまうワタクシ。5月の今頃、やっぱり同じように日差しが強くて5月にしては暑過ぎる昼下がり、まだ小さかったコータローと一緒に病院に向かっていた道の途中、瀟洒なお宅の庭に、幻のように咲いていた花が忘れられず、あれはきっと薔薇だ、と思い苗を買って、植えたのが4年前。

マメに手入れしてやらないせいで、全然大きくなってないけれど、こうして毎年、優雅な花を咲かせてくれるから、あの幻のように美しかった花を見た昼下がりのこと、そしてその数日後には天国へ旅立ってしまった「湯布院のおいちゃん」のことを、美しく思い出すのです。

平凡な日常の中に、こんな美しい花とか、音楽とか、そういうものがあると、なかなか良いな、と思います。

ほんの些細な出来事からも、何かが特別なものになったり、特別な場所になったりすること、ありますよね。だから、普通に日常生活を送りながらも、自分だけにしか分からない思い出に、浸ったり、どこかに飛んで行ったりもして、心はなかなか自由です。

以前、ドイツ語学習をやっていた時、その時のラジオ講座がものすごく良くて、あれは今考えてもしみじみ黄金期だった、と思うほど充実したラジオ講座であったのですけれど、その時に聞いたドイツの歌「In einer kleinen Konditorei」という歌がワタクシはとっても好きで、カセットテープ(古いですな)が伸び切ってダメにしてしまったほど聞いたのでしたが、これは日本語版も出ています。日本語では「小さな喫茶店」という題名です。

歌詞の訳はドイツ語とは随分違いますけど、雰囲気というか、佇まいというか、そういうのをよくとらえて、実に上手な日本語訳になっている、とてもいい歌です。今日はそれを聞きたくなりました。


ではでは、明日の「木ノ口かたし」も、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さまも、良い一日をお過ごし下さい。

by sanahefuji | 2019-05-24 08:52 | 雑記 | Comments(0)

向いてなくてもやって良い

おはようございます。

昨日は、うっかり空白を作ってしまいました。一応「毎日書く」ということを目標にしておりますこのブログ、時間さえ許せばいくらでも書くことができるのですが、生憎、貧乏暇なし、というのを地でいっているわが家といたしましては、いかに無能な主婦であっても(というか無能な主婦だからか)、なかなかそういうわけにはいきません。

一日のうちのなるべく早い時間に書いてしまう方が安心なのですが、というのも、最近は夜遅くなると次の日に早く起きられなくて、弁当が間に合わなくて、弁当を届けに行く、となってしまうからです。

しかし朝の時間に書くということは、子供たちは例えば味噌汁とごはんと弁当のおかずの残りなどを、各自でよそって食べている、ということで、ワタクシがわざわざ並べて「はい、どうぞ」ということはしていないのです。

これについては、例えば、ごはん時に自分は何も動かずに座って食べ物が出てくるのを待っているヒト、になっては困るから、というもっともらしい理由をつけることも出来ますが、本当はただ朝起きてからすぐに何かを書いていたい、というワタクシの「読み書き中毒」症状のためなのでした。

しかしこれは、他のヒトがごはんを食べているのに、同じ食卓でパソコンに向かっているのはどうなのか、というモンダイになりそうな気がしますね。うん、あまり感心しないことだなぁ、ヨクナイかもしれない、とにわかに反省してしまう、こうして書いているといろいろなことに気がつきますから、やっぱり書くことはいいことですね。と、すぐに都合のいいように正当化する。

そのように、母親としてはどうなのか、ということが多いワタクシですから、例えば子供が学校に持って行くものの準備なども、真面目に見てあげたりしてなかったので、わが家の子供たちは忘れものが多かったかもしれません。しかし娘たちは成長してみれば、そうそうだらしないこともなく、自分でちゃんとしているようなので、それでもよかったのかなと思います。

しかし、まだ2年生のコータローは、最近忘れものをして先生に叱られて泣いたりしていたので、さすがにちょっとかわいそうになって、じゃあ一緒に確認しようか、ということになって一緒に準備しました。しかし、母があまりあてにならないと思ったのか、もう一度自分で確認しています。いいことです。
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ワタクシ自身は、もう何度も書いているように、そういう経験(お母さんが一緒に準備するとか、宿題を見てくれるとか、あとは何だろう、とにかく母親がしそうなこと全般)が全くないので、何をどこまで、どうしていいのか、というのが未知の世界でした。

未知の世界に足を踏み入れる、というのは、どんなことでもタイヘンなことです。だから、いろいろとタイヘンだったような気もしますが、でもそういうことは忘れて、楽しかったことだけを覚えています。ホントに人間って都合がいい生き物です。しかし、おそらく子供たちはタイヘンだったこととか、イヤだったこととかもちゃんと記憶していて「自分が親になったら、こうする」とか「あのようにはならないぞ」などと思っているはずなんです。なので、それはその決意の通りにしてもらったらいい、と思います。

良くも悪くも現実の存在であるモデルがあった方が、やりやすいのではないか、と、ワタクシは考えます。というのも、ワタクシのように母が暮らしの中に存在していなかった者というのは、現実の人間である母親を見ていないので「理想の母親像」などを頭で考えてしまったりして、タイヘン苦しむことになるからです。

なので、周囲のヒト(この場合は子供)が実際の人間を見ることができる、という点では、どういう母であっても、そこにいるだけでも何かしらの価値はある、ということです。まぁこれは何も母に限ったことではなく、いろいろな役割やお仕事をしているヒトビトでもそうなのだと思います。立派でなくても、向いてなくても、ちゃんとやってなくても、周囲のヒトビトは、その人間そのヒトから、何かしら学ぶことがあるんだろうな、と、いろんなことが向いてなかったワタクシは考えるのです。

自分が、このことに向いていない、と分かってしまうというか悟ってしまうことは、がっかりするし、少し悲しかったりすることでもありますが、だからといって、それをやったらダメ、ということもないのだな、と思います。やってみたければ、下手なりにやってみればいいのだな、と。
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今年も「おいちゃんのバラ」、咲いてくれました。これ、もう何年もたっているのに、全然大きくなっていないのは何故かと言うと、強風で折れてしまったからなのです。そういうのもマメに手入れをして、支えてやるなり何なりしなくては、大きくならないんだなぁと思うワタクシ、この園芸というのも自分には全く向いていない、ということを、もう相当に前から気がついていて、それは本当にガッカリすることなのですが、でもだからといって、やったらダメということもない。

すぐに草だらけにしてしまう庭ですが、細々と、出来る範囲でやっていこうと思います。

哲学者の土屋賢二氏が言ってたように何事もヒトと比べると「悩み」になってしまいますから、比べる必要はないのです。

そうそう、開き直って、やってみたいことは、やったらいいんじゃないのかな。

それにしても、いろいろはかどらないのですが、落ち着いて順番にやっていこうと思います。

ではでは皆さまも、今日も良い一日をお過ごし下さいませ。
















by sanahefuji | 2019-05-23 08:22 | 雑記 | Comments(0)

スズランの香り

こんにちは。

ここ2~3日、茶碗を洗い過ぎたせいなのか、夜に家の流しにまた山積みになっている茶碗を洗うのが、「よだきい(大分弁 面倒とかダルいとかいう意味です)な」と思ってしまったワタクシですが、でもこれはきっと、家の流しが「木ノ口かたし」よりも狭いせいで圧迫感があるからだろう、と思うことにしました。

このように「よだきい病」になりそうな時は、そのままにしないで、それを最後までやってしまった方がいい、ということは経験済みなので、洗ってしまったのですが、昔はこれが出来なかったのよね。積み残したままにしたりしてましたから、少しは進歩したんじゃないかしら。

しかし、この「よだきい病」に罹りそうな時、というのは、いろいろな原因が複雑に絡まり合っていることが多いのですが、まぁ結局のところなんだかんだと用事や気にかかる事が多すぎて、要領の悪いワタクシがそれを上手くこなせない、というだけのことなのですが。ホントに同時進行でいろいろやる、というのはムズカシイ。


ちょっと前にオシャレにおける「香りのモンダイ」ということについて書きました。その時にワタクシは、自分が食べ物を扱う仕事をしているから、家に香りの強い洗濯関係のものとかシャンプーなどを持ち込みたくない、というようなことも書きました。しかし、娘たちはお年頃なので、シャンプーなどは仕方がないか、と思って解禁しているのですが、家の洗濯や自分はもっぱら無臭あるいは、ごく微香の石鹸を使用していて、なるべく「無臭の女」でいようと思っているのです。

しかし、その香りモンダイがずっと気になっていて、気になったことはそのままにしない、という目標を掲げておりますワタクシは、何かいい考えはないか、と思っていたところ、最近「練り香水」なるものがあることを知りまして、それをですね、買ってみたんです。これならば、何か家全体に移るほどの強い香りでもなさそうだし、お出かけの時にちょっと使うくらいならいいかな、と思いまして。

家全体、というの、大袈裟ではないのですよ、これが。例えば、子供たちが手作りお菓子を貰ってきたりすることがありますけど、この時に子供たちが「これ、○○ちゃんの家の匂いの味がする」と言うのです。これはどういうことかと言いますと、その家で使っている柔軟剤だか何かの匂いというのが家に充満していて、おそらく台所にある小麦粉なども、その匂いを吸収してしまうのですね。それでその「匂いの味」がお菓子についてしまうのです。

そういうことがあるのでワタクシは、強い匂いのするものには、タイヘン警戒してしまうのでした。

しかし、この度、香りモンダイに挑戦するために「練り香水」なるものを買ってみたわけですが、その香りを何にするか、というのは、もう決まっていました。それは「スズランの香り」です。
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ワタクシが高校生の頃、あれはいつだったか、誕生日だったかクリスマスだったか忘れましたが、とにかく何かのプレゼントに父親がスズランの香りの香水をくれたことがありました。

それは、昔からオシャレ関係には疎かったワタクシがその時初めて聞いたブランド「クリスチャン・ディオール」のものでした。

化粧や香水の匂いが苦手なワタクシにとっても、その匂いは全然きつい感じではなくて、すごくいい香りだったので、気に入って、ごくごく控え目ながら使っていたのでした。

そのスズランの香りを覚えた友達が「これって『ふじわら(ワタクシの旧姓ですけど)』って感じする」と言ってくれたのが、とっても嬉しかったのでした。

なので、いろいろな花の香りの中でも、やはり再びコレだろう、と思ったわけです。久しぶりに嗅いだスズランの香りは、やっぱり好きな香りでした。

しかし香りの記憶、というのは、他のどんな記憶よりも、その当時のいろいろなことを甦らせるものですね。スズランの香りに、その時は気がつかなかった家族の愛情とか、母がいなくて寂しいながらも温かかった家庭や地域のこと、友達のことなどなども思い出され、不覚にも涙がこぼれました。

ホントにね、時間がたたないと分からないことも、ありますね。

でもよかった、思い切って(そんなことくらいで思い切るな、という感じもしますけど)「練り香水」なるもの、買ってみて。

この歌、聞きたくなったなぁ。














by sanahefuji | 2019-05-21 13:29 | 雑記 | Comments(0)